フラン

サイレントヒルのフランのレビュー・感想・評価

サイレントヒル(2006年製作の映画)
4.7
素晴らしいレビューだったので転載させて頂きます。

【投稿者シロちゃん2017年2月19日】
この映画はホラーとかダークファンタジーなどと呼ばれていますが、わたしは色んな考察も踏まえて二回目に観て、この映画は人間の心理とこの世の真理を暴こうとするあまりに深いテーマの映画なのだと感じました。
それは原作のゲームが奥深いからだと思うのですが、この映画はガンズ監督の特有のメッセージのようなものがあるように想えてなりません。

映画中に聖書の言葉が何度も出てくるのですが、この映画には宗教悪と聖書の真理を同時に伝えているような非常に複雑な心理と真理が隠れているかもしれません。

テーマの一つは間違いなく「母性」ですが、もう一つのテーマが「報い」であって、そして善悪を超えようとする「真理」のようなテーマがあるのではないだろうか。
この映画を善悪の基準内で捉えるとつまらない内容になります。
善人はその善によって報われ、悪人はその悪によって報われるといった単純なテーマではないということです。
善人と思っていた人が拷問に合わされ、殺されます。
そして善人が悪に変わって報復を遂げるというテーマでもないように思えてならないのです。

Do you not know that the saints will judge the world?
聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。
Do you not know that we will judge angels?
あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使いをさえさばく者である。

というコリント人への第一の手紙6章2,3節の言葉が道路の立て看板にあって二度映りました。

映画にはクリスチャンによる”悪魔祓い”が出てきます。
神の御使いの一人がサタン(デーモン、悪魔)であります。
劇中ではクリスチャンたちは報いを受けるわけですが、”クリスチャンは人間の内にある罪、その悪をも裁く者である”というその間違い(妄信)を監督は伝えたいのでしょうか?
わたしはそれは違うだろうと思います。
報いを受けるクリスチャン自身がこんな言葉を言っていました。
「裁くのは罪、人ではない」
この言葉は聖書の教えから出てきた言葉です。
イエスは「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。
(ヨハネによる福音書7章24節)」
と言ったかと思うと
「人をさばいてはならない。
自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
(マタイによる福音書7章1,2節)」
と言いました。

正しい裁きができないのならば人を裁くことはどのような結果を生むかを教えているのでしょうか。
クリスチャンなる者、人を裁くのは命懸けとも言えるでしょう。
そうであらねば忠実なるクリスチャンとは言えません。
罪は人にあらず、と言いながら人を悪魔呼ばわりして裁くことがあんまりにも矛盾しているように思えますが、その行いはイエスの「正しいさばきを行ないなさい」という言葉に励まされたことでしょう。

相手の中に見る罪は自らの罪です。それでもなお裁くならば、正しい裁きを行いなさいとイエスは言っています。
「うわべによって人を裁く」とは、自ら拷問のような苦しみを受けて死ぬことを恐れて裁くことです。
そうではなく、自らを拷問にかけて殺す覚悟で他者の罪を、裁きなさい。とイエスは言っているのだと想います。
それこそが、「ただしい裁き」であるのだと。
イエスの教えはとてつもなく厳しい教えなのです。

キリスト教徒は果たしてどれほどの人々に正しい裁きを行なえてきたでしょうか。
どのような裁きであっても、かならず同じだけの裁きか、それ以上の裁きを受ける覚悟で。
しかしそれはキリスト教徒だけの話でしょうか?

正義を信じて人を殺す。そんな妄信教徒たちは、実はこの世に溢れ返っているのです。
それが死刑制度です。
それは殺人者を「拷問にあわせ、そして殺せ」と言う人たちです。
それが誰かを「悪魔」呼ばわりして裁いた聖徒たちとまったく同じ妄信にあるわけです。

この映画のレビューにはどこにもそのようなことに気づかされたというレビューはありませんでした。
罪人がその悪による報いを受けることは完全スルーで、善人が悪の報いを受けることには納得がいかないという感じのレビューがあまりに多かった。
わたしはこれに納得がいかない人間です。

まったくの善人が、果たしてどこにいるのだろうかと思うからです。
罪のない者はいるか、と言われて、「はい、わたしは罪をただの一つも犯したことはございません。わたしはまったくの善人であります」と前に出る者はいるのでしょうか。
そのような人間ほど疑わしいのではないでしょうか。
人間なるもの、どのような人でも心のどこかにやましいものを絶えず持ちつづけているのではないでしょうか。
だからこそ人は人を裁けるような存在ではないとイエスは言っているんだと思うのです。
しかしこの世界ではこのようなフレーズをしょっちゅう聞きます。
「なんの罪もない人が、」
「なんの罪もないのに殺された」
それは言い換えれば「罪人ならば殺されても仕方ない」という言葉です。
自分にも罪はあるのに、他者の罪は自分の罪よりももっと重いと思い込んでいるそれが「妄信」というものです。

何故この映画は、

Do you not know that the saints will judge the world?
聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。
Do you not know that we will judge angels?
あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使いをさえさばく者である。

という言葉を二回も映したのでしょうか。
人(他者)のなかの悪を裁き、その報いによって自らを裁く者、それが我々自身だからではないでしょうか。
それが神と自分の関係であるのだと、この映画は伝えたかったのではないだろうか?
だから善人だと思って、ああこの人はたぶん助かるやろう、って思ってたらほんまに酷い遣り方で殺されてしまった。
それを観て不快に思う人たちがきっと多いのも監督は見通していて、それでも善人(だと思い込んでいる人物)を拷問にかけ、そして処刑する場を描きました。
まるでキリスト(メシア)がされたような処刑方法、拷問のあとのさらなる拷問による処刑という方法で監督は一見無慈悲にも彼女を処刑したのです。
でも良く観てみれば、彼女にも、罪がありました。
彼女は相手からかかってくる前に自分から殴りかかって、人を殺そうとしていました。
その罪の報いを、彼女はみずから望んだのかもしれない。
正義感の強い人ほど、自分に対してつらい報いを求むはずです。
そして悪魔祓いをしたクリスチャンもまた、正義を強く愛するからこそキリストに忠実な人間であったはずです。

だからこの映画は、けっして簡単な報復映画ではなく、自ら報いを求め受ける者たちの「己れを裁く者たち」の映画でもあったんだと想いました。
「聖徒は世を裁く者」であるからこそ、自分は自分で裁こうとする者たち、それが真の神を愛するクリスチャンです。

善人であると思っていた彼女の処刑シーンを想いだすといつも涙が出ます。
わたしは彼女の処刑シーンはこの映画の一番の感動的なシーンとして監督が置いたのだと感じます。
彼女のあの最期の言葉…… 人間の慈しみを最大限に表している一番美しい場面です。
あのシーンに感動する人間は宗教に入っていなくともわたしはクリスチャンだと想います。
自らの罪を、自ら裁く者、どのような苦しみをも自ら受け入れる者、それがクリスチャンです。

ほかにもこんな聖句が劇中に出てきます。

”正義を憎む者は罰せられる”

これはその言葉の下にPs34:21と書いてあるので詩篇(Psalms)34章21節の

「悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる」

という聖句の言葉です。

これもとても重要な聖句です。
「善は悪者を殺し」ではなく「悪者を殺す」のはかならず「悪」であることを示しています。
しかし映画にはそのあとの聖句しか出てきません。
もしこの「悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる」という聖句が、処刑場に掲げられていたなら、誰もがその皮肉に呆れるでしょう。
処刑に関わる人たちは、殺人者に死刑を望む人たちは、ほんとうに「善が悪者を殺す」と信じているのでしょうか。
なぜ監督はそのあとの言葉だけを映画に入れたのでしょう。
それは人間の都合の良さを表したいからでしょうか?
悪者を裁く”悪”が、相手は「正義(正しい者)」ではないと証明できるのでしょうか。
相手が「正義(正しい者)」であるなら、彼を憎み、また裁く者は罪に定められ、罰せられるのです。

ほかにも

”あらゆる勝利は全能の神の手にあり”

という言葉が教会に掲げられていました。

「勝利 手」で聖書検索するとどういう聖句が出てくるか調べてみました。

詩篇20章6節にはこんな聖句があります。

「今わたしは知る、
主はその油そそがれた者を助けられることを。
主はその右の手による大いなる勝利をもって
その聖なる天から彼に答えられるであろう」

そして詩篇44章3節にはこうあります。

「彼らは自分のつるぎによって国を獲たのでなく、
また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。
ただあなたの右の手、あなたの腕、
あなたのみ顔の光によるのでした。
あなたが彼らを恵まれたからです」

イザヤ書41章10節にはこうあります。

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」
こういう聖句がわたしは胸にぐっと来ますね。

ヨブ記40章14節にはこうあります。

「そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。
お前が自分の右の手で/勝利を得たことになるのだから」

ヨブ記だけが神の手ではなく、”おまえの右の手”で勝利を得たというのは面白いなと想います。
この言葉は神の言葉ではなく神の許しを得たサタンが神を装って告げた言葉だとされています。
サタンは「わたし(神)の右の手でおまえは勝利を得る」とは言わずに「おまえが勝利を得るのは自分の右の手」であると言ったんですね。

サタンは果たして、嘘をヨブに言ったのでしょうか?
「勝利」とは、「正義」と同一の意味だと想います。
そしてみずから撒いた種が実る(結実する)とき、「成就」と「成功」の意味があります。
すべての「成功」は”わたしの手にある”と神は述べ、サタンは”おまえの手にある”と述べました。
わたしは神もサタンも本当のことを述べていると想います。

神を愛する者は御使い(サタン、悪)をも裁く者、自分の手によって自分の中の悪を裁くのですから、その勝利(成功)は神の手の内にもありながら同時に自分の手の内にもあるのではないでしょうか。

この映画にはいくつものあまりに惨(むご)たらしく、苦しくてたまらない死(最期)が出てきますが、監督は何故ここまで人間の惨憺(さんたん)たる死を描いたのでしょうか。

それは人は罪の重さに比例する罰が下るという世界を現したかったからではないことが、善人のような人物さえも拷問にかけて処刑したことから伝わってきます。

人間の最期は、その罪の重さには比例せず、むしろ”自罰(報い)の望みの深さ”に比例するのだと監督は伝えたいのではないだろうか?

この「サイレントヒル」という映画の三大テーマは「母性」「報い」、そして「神(自分)への愛」です。

だからこんなに感動する映画なのです。
それはこの世のとてつもなく深い真理だからです。

そして憎まれる者は相手を憎むよりも先に憎まれ愛されない自分自身を激しく憎みます。
その自己憎悪を相手に映しこむわけです。
相手に報復するよりも先に報復をしたいのは自分自身なのです。
自分自身を裁くために相手を裁く、自分に復讐するために相手に復讐して、自分にとんでもない報いが訪れることを今か今かと待ちわびているのです。

いじめを受ける子供はみんなそうです。
ほんとうのほんとうに憎いのは自分自身なのです。
だからこの映画が、どれほどの悲しみの詰まった映画であるか、もう詰まって詰まってしょうがない、一人ひとりの悲しみとその報いが展開される稀有な感動を与えられる映画になっています。

本当の報いとは、善人を処刑してこそ、与えられるということをきっと知っていたのでしょう。

この「サイレントヒル」は自分を酷く憎む者たちの物語です。
母ローズは、娘が精神の病にかかるようになったのは自分のせいだときっと自分を責めつづけたはずです。
父クリストファーも自分がしっかりしてなかったから妻と娘がサイレントヒルから帰ってこないのだと自分を責めたはずです。
もうみんながみんな、自分をどこかで激しく憎んでいたはずです。

自分を本当に赦すことができない限り、サイレントヒルからは決して戻ってはこれないでしょう。

いつになるのでしょう。彼女はいつまで、サイレントヒルで自分を責めつづけるのでしょう。

時間の過ぎることもない、霧に包まれたサイレントヒルで。
フラン

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