脚本=演出が『涙』コンビで観る前からという奴だが、それにしても、スコープ画面をフルにかつ乱れなく使いこなし、端っこ等に奥行きの可能性まで加えた完全トゥショットに、寄りの90°変に切り替え、またその1つ挟んでのどんでん退き、その90°変続きや切返し感、90°だけでなくやや斜めめの寄りも入り、顔CUは別撮り平板嵌め込みていうより、入ってきたり·沿ってての切り取りの様。正にこれ以上なくスッキリして飾りのない快感を受けるのだが、纏まってるというより伸び突き抜けてくキレを含んでる。バイク上フォローや車窓スピード感·怖くもある、そして室内でも時折の前後移動の力。そしてそれを押さえ、うなだれてく深みに変えんとする、音楽の滲み出情感·場合によっては不条理も導きかねない苦さの中の甘んじ·それでも味わい感。大L、都度、走る列車の橫図(半シルエット)の入れも、圧巻の存在と美の在りかを示す。
今回のプリントは殆ど色彩が抜けてて、共に新人の不器用新鮮さの出てる、倍賞=勝呂ものの何本あるか分からないがその所詮1本でしかないにしても、空間·空気·清心さと壁厳然、処理が見事過ぎる。脚本·楠田は語りが不充分に留まり、いくら昭和37年とはいえ、職人気質や結核への理解旧過ぎる感。しかし、川頭演出に載ると、当時日本の片隅でも確かに存在した私達の共通認識の枠内、あり得る·あり得る、となる。空間内の配置·飾り付け、カット間の清潔距離感·俳優表情の演技ゆとりの排除。
が、何かがもの足らない、好感だけに終わるかと思ってると、終盤、映画自体が内より、主体的でかつ自然に叶ううごめきの力を決定的に、可能性というものの存在そのものに、見せてくる。映画としても、不純ではなく、より純粋さを増しきった軌跡。結核からきられた真実を隠し、息子の負担になるまいと、都会は合わぬと、青森への汽車へ乗った母をひと目と探すべく並走の息子の横フォロー移動に、更に空前に上回る·狭い列車内を収めた俯瞰カットがその侭走りだし·母の位置に届く稀有の移動から、医者に真実と閉塞打ち破りを聞き出す息子と恋人、郷里で河で掬いをする母へ息子の駆けつけ·近寄り合い抱擁の、逆に退く、周りを廻る、各々の存外移動へ繋がる。息子の帰郷に冷やかな勤めてるクリーニング屋の女主人や娘らの冷たさの退き90°変の固定動かずカット(本作ではメインを囲む、主人筋の女が徹底冷淡の役割)と、「けえれ。惚れられたお返しで、俺がおめぇの分も働くから」と嘗て反発行動起こす前に只で職人として完成し·ここを踏みこえろ、と教え納得させ惚れたと言わせた(それは唐突で作品の弱点と思えたが)·応援職人の寄りアップへ行戻りカッティングが、対照·対峙見つめ合う、囲みらの中。ラスト、手を取り合い画面手前へくる母子は、冒頭の就職送り出し、バスへ走る母子の横Lパン追いに呼応する。
青森から上京し、2件目のクリーニング屋で2年の、御用聞きや配達担当メインも腕も磨いてる青年と、同じくラーメン亭で、料理人の腕も上げてる過保護で強引なその兄の監視下、給仕や出前で2年の娘の、自然な恋愛の意識と育み。バーの女と気楽に付き合ってる兄は、母に棄てられた過去の傷から、妹は安定社会のエリートへ嫁がすと、2人を一切認めない。そこへ、故郷で居候してる伯父家族との折り合い悪さが、表面化、いたたまれず青森の母の上京、急に。勤め口に骨折り、体調崩す恋人。宴会で休む場無しを、バーの女が働いてる間のアパートを提供。聞きつけて、皆がズレて遭遇。恋人の兄は、母というものの愛の、深さ·暖かさに接し、バーの女とのデートを実母訪ねに変え(後妻で苦労死してた)、彼女を本当の恋人とし、妹の恋の行方も、見守る姿勢に変わる。息子は、雇い主の非情、同郷同業の友の過酷環境事故死と、目標に出来る理想的応援職人との出会い、も経験してく。元より身体の弱い母は、住み込の工場食堂勤めが評判もいい中、結核を発症、息子に負担は、と都会合わぬと帰郷する。工場長に真実を聞いた恋人は、息子と共に、医師を訪ね、療養可能を聞き、息子は青森の母を迎えに行く。