天馬トビオ

無法松の一生の天馬トビオのレビュー・感想・評価

無法松の一生(1958年製作の映画)
3.0
かねてより村田英雄が歌う無法松には、豪放磊落、強きをくじき弱きを助ける男の中の男、みたいなイメージを持っていましたが、この映画を観て、実は権力や体制にはからきし弱い男だと、ちょっとがっかりしてしまいました。興行を取り仕切るヤクザの親分や、国家の威信を担っている軍人や、インテリの学者や学生には頭が上がらないんですよね。時代がそうだから仕方がないのかもしれませんが、自分が無学で貧乏な社会の底辺に生きる階層の人間だと諦めていて、上昇志向もない、その範疇でしか生きられない、封建社会、格差社会の無法松です。

そうした現実に生きる無法松にとって、旧武家出身で軍人の家に嫁いだ未亡人の吉岡夫人は、天上の存在、まさに高嶺の花。純情をもって仕えることだけが、唯一できることなのです。

無法松は、心の裡にひそむ夫人への想いをどう理解していたのでしょう。けっして叶うことのない想いと知りつつ、美人画ポスターに夫人の面影をしのび、一人息子の成長を願い、花火の夜の無骨でせつない告白ができるだけ。ワンシーンで圧倒するあばれ太鼓の乱れ打ちは、そんな無法松の千々に乱れる心を描いてあまりあります。

翻って吉岡夫人の場合。彼女にとっての無法松は、使用人、奉公人それ以上でもそれ以下でもなかったのではないでしょう、少なくともあの花火の夜までは……。にじり寄る無法松――そこに恋愛対象などとはつゆとも思わなかった無法松の想いを知ったとき、初めて彼女は旧家の娘でも、軍人の未亡人でも、一人息子を育てる軍国の母でもない、ただの一人に女であることを思い知ったのではないでしょうか。

男は夢から現実を考えるけれど、女は現実の中でしか夢を見られない……とも言います。無法松と吉岡夫人、格差社会に生きた二人が見た同床異夢。柳原白蓮や伊藤野枝が過激なまでの自由恋愛を生きる時代は、もう少し先のことなのです……。
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