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簪(かんざし)のSEULLECINEMAのレビュー・感想・評価

簪(かんざし)(1941年製作の映画)
5.0
全身の力が抜けてしまうほどに、夢のように美しいフィルムだった。日本映画史上最高峰の作品といっても過言ではないと思う。このフィルムだけは絶対にDVDを買って、手元に置いておきたい。これをいつでも観られるというだけで、どんなに辛い人生でも生きていける気がする。

題目講が温泉宿へと向かう様子を捉えたファースト・ショットの自然光が、この夢物語の透明感と開放感を宣言する。そして宿での講を捉えた驚異的なトラヴェリング・ショットを皮切りに、物語が駆動する。
子供たちの日記のくだりにも象徴されるように、このフィルムの基本構造はとめどもない反復である。温泉での入浴中に簪で足を怪我した笠智衆は、その落とし主である田中絹代と夏休みの子どもたちと共にリハビリを反復する。気難しい学者である斎藤達雄は小言と電話と囲碁を反復し、夫婦連れの日守新一は彼に小言を言われ「失礼しました」を反復する。そして温泉宿では、団体客が反復される。
銀色に光り輝く木漏れ日の美しさや、山あいの川の流れの美しさや、部屋の窓から見える外の景色の美しさが、その反復の美しさを補強する。クロース・アップを除く全てのショットにおいて構図が奥に開かれており、例を見ないほどの透明感をもった映画的空間が形成されている。

このような反復の途方もない開放感と美しさと瑞々しさは、観た人にしか伝わらないと思う。

そして、共に食べること、共に話すこと、共に水と戯れること—男性陣は温泉に入り、田中絹代はいつも川辺にいる—が、次第に彼らの距離を縮める。"親密さ”としか形容のしようがないその緩やかで曖昧な関係の美しさは、人間が奥底に秘めている丸裸の心の美しさを露呈させる。恋心も、家族愛も、友情もいらない。日常を共に反復できる人が傍らにいるだけで、人生はこうも美しく彩られるのだ。

川崎弘子の登場は、その反復の終了を予感させる。明らかな"局外者”である彼女は、陽のあたる庭で傘をさし—田中絹代は既に傘を落とし、黒々と焼けている!—隣室のいびきで眠れない。ごろ寝をしている彼女の背後の襖は閉じられている。彼女の登場以後、フィルムは緩やかに、穏やかに結末へと向かい始める。

そしてフィルムが終盤に差し掛かると、団体客が最後の反復を迎え、冒頭のトラヴェリング・ショットがはじめて反復される。
しかしその反復が、"共に眠る”という最も親密な行為を可能にするのである。この"共に眠る”シークェンスの驚異的なまでの美しさは、人智を超えたものだった。眠ることが反復された果てに捉えられた夢のような美しい仰臥のショットは、まるでこの世界を祝福しているかのようだった。

彼らの親密さがそのようにして頂点を迎えると、反復の中断は突如として訪れる。彼らは次々と東京へ発ってしまう。しかしその様子はキャメラでは捉えられない。反復の象徴たる日記で示されるのみである。

そして、笠智衆は最後の反復として石段を登る。一段一段、田中絹代を置き去りにするように、懸命に、美しく、石段を登る。その間、田中絹代と笠智衆は決して正対しない。彼女は自分から一歩ずつ遠ざかる笠智衆の背をじっと見つめる。そして笠智衆がとうとうリハビリを達成すると、田中絹代は背を向ける。彼らの間には長い石段が佇んでいる。このショットは奇跡的だった。

ラスト・シークェンスにおいて、田中絹代は最後の反復を行う。庭を訪れ、川を訪れ、一段一段と石段を踏み締める。笠智衆も子どもたちも東京へ発ち、彼女は独りになってしまった。ラスト・ショットの田中絹代は、親密さに身を委ねるようにして捨てた傘を、再度さしている。

井伏鱒二による原作のタイトルは、「四つの湯槽」である。"偶然と想像”とも表現できるこのフィルムを、清水宏は『簪』と名付けた。人と人が織りなす、爽やかで、快活で、気さくで、瑞々しい、親密な人間讃歌に、最もふさわしいタイトルだと私は思う。
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