いか

フラガールのいかのレビュー・感想・評価

フラガール(2006年製作の映画)
3.2
テレビを見なくなって久しい。しずちゃんこと山崎静代はボクシングやりますと言い放って以来どうしているのだろうか。相方は今何をしているのだろうか。少なくともぼくは、かつて南海キャンディーズと呼ばれた芸人の現状に興味はないし、過去の脚光はすでに記憶だ。記憶はいつか必ず朽ちてゆく。そして、健康ランドとかいう地方の普遍的巨大建築物も今は次々と朽ちてゆく。でも朽ちてゆくのは建物のほうではなくて、いやもちろん建物も崩れるんですけど、たかだか数十年で用無しなんだから建物が勝手に崩れるんじゃなくてむしろ人間が積極的に精神的に壊していくのであって、朽ちてゆくのは結局のところこのぼくの記憶のほうだ。記憶の忘却が速ければ速いほど文化は発展し文明は加速する。人々は古い記憶を忘れるために新しいものを記憶してゆき、新しいものを記憶するために古い記憶を忘れてゆく。だから、新しい情報や新しいものを作る。人々が記憶に囚われた時が文明の死だ。覚えるべきことがないからだ。あるいは、忘れるべきことがないからだ。同じように、ぼくが記憶に囚われた時がぼくの死だ。記憶とその忘却の物理的なプロセスを持たない生物とは、代謝の一部を自ら止めてしまった生物のようであって、それはすなわち生きているという状態の一部否定であり、ある意味なにかが死んでいると言えるだろうから。要するに、その積極的に死んでいるなにかってのが、記憶と結びついているぼくという人格そのものだということ。覚えるべきこともないし、忘れるべきこともない。あるいは、すべて覚えられるし、すべて忘れられる。それはつまり、記憶の外部化、知識の外部化、認識の外部化を成し遂げ、かつそれらが共有可能となった生物たちのことだ。そのシステムの中で、記憶や知識や認識の主体だと哀れにも思われてきたこのぼくはもはやなんの機能も有することができなくなるだろう。主体は消え、客体だけが残る。つまりは文明の死だけが残るはずだ。ていうか、なんでこんな話になったんですか。
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