日高

17歳のカルテの日高のレビュー・感想・評価

17歳のカルテ(1999年製作の映画)
4.5
精神的に正常か異常かというのは、オセロのコマの裏と表のように、つねに状況によって入れ替わる可能性のあるものだと思った。

頭がおかしくても正常な人はいるし、明晰であるがゆえに異常側に行ってしまう人もいる。主人公のスザンナの、自己を内観する力は十分なものだし、大人になるにつれて見えてくる世界(社会)というものへの失望もきちんと認識しているようだった。

自我を確立するにあたって見えてくる自分や世界への、「現実的な不満」は誰もが感じるものだと思う。しかし、彼女はその不満をキャッチする感度が敏感すぎたのか、もしくはその感度への信頼が強すぎたのかもしれない。

「いいか、誰にとってもひどい世の中なんだ。まともじゃないんだから。だって、もし徴兵委員会が抽選で僕の誕生日を引き当てたら、僕は死ぬんだぜ。」

彼女はそういうまともじゃない現実から目を逸らさない(逸らせない)くせに、現実に立ち向かおうとはしなかった。敏感に現実を感じるくせに、立ち向かおうとも、また逃げようともしなかった。

あらゆるものを明晰に見通せる。だからいつでも苦しいけれど、その安定した苦しさのなかでつらそうに生きていく自分。感情を鈍麻させて現実から目を逸らしたり苦しさから逃げたりすることは、適応的な対処かもしれないが、それは許さなかった。代わりに淫乱やアスピリンの一気飲みなど、正常側から見れば非適応的な行為は、彼女をまともじゃない現実に生きさせるのに必要だった。彼女は冷静でまともで賢かったし、苦しい現実を生きていくための彼女なりの対応も探したけれど、精神的には「異常」だった。

女性の精神病棟を舞台にしたお話で、境界性人格障害であるスザンナのほかにも、拒食症、虚言症、ひどいヤケド面の醜さに病んだり、暴力的性格など、いろんな女性が登場する。彼女らもスザンナと同じように、上に書いたような「明晰さ」を持っていたり、持っていないなかったり、持っているけれどそれを抑制したりしていて、またその明晰さは状況によって現れたり現れなかったりして、ここにも精神的な正常と異常との入れ替わり可能性を感じた。

「クワイエットルームにようこそ」も、女性の精神病棟を描いた映画だけれどそれを観た時と似た感覚があった。「カッコーの巣の上で」を観た時にも近いものがあった。共通するのは、正常側から見た異常はなにをしても異常に見えるという事、異常者の正常は異常者仲間のうちでは正常なのだが、看守や看護師からは極めて異常な行為として映るという状況、正常者が異常者を一方的に裁くという力関係。この作品では、異常者の正常さにスポットをよく当てているような気がした。

リサという患者がめちゃめちゃ魅力的でした。きれいで、かっこよくて、勇気があって、弱い。
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