左藤

マダムと女房の左藤のレビュー・感想・評価

マダムと女房(1931年製作の映画)
3.7
 その辺りの事情は全然知らないが日本初の本格的トーキー映画らしく、実際、「音」が映画の主題になっている(たぶん同時代にこういう手法はよくあったのではないかと推察はする。)コメディとしてみた場合は退屈であり、ストーリーもあってないようなものだが、いろいろな隠喩に満ちているように見えた。

 犬猫の声、鼻をかむ音、天井をネズミが走る音、子供の夜泣き、子守唄、目覚まし時計などSEが入るシーンが「見せ場」のように撮られているが、重要なのは、「隣の雑音」という仮題が示す通り、その音が「雑音」として示されている点だろう。この映画では、「何かへの没頭が雑音で邪魔される」シーンがとにかく反復されるし、それだけを描いていると言ってもよい。そしてこの映画はある意味で「音」の本質をついていて、隣家から聞こえるジャズの音を遮断しようとしてできず苦しむ主人公の姿から、いかなる音でも基本的にはノイズなのだということが感じられる気がする。まぶたを持つ目とは違って耳は自力で音を遮断できないからである。音は私秘的な空間の破壊なのだ。

 中盤で「ジャズ」という要素が登場してからは、「マダムと女房」=「西洋近代と日本前近代」の対比が露骨に登場し、ジャズシンガーである「マダム」(「あのモダン・ガール!」)に惹かれる主人公に対する「女房」の嫉妬の様が描かれる。この構図は凡庸だが、まあ処理はうまくいっている気がするし、あっさり描かれているのでそこまで気にならない。「女房」がミシンの音で主人公の仕事を邪魔し、「洋服」をねだるというのが一応のオチに見える。
 ごく短い、とってつけたようなラストシーンでは「女房」と一応は仲直りし(ジャズで「昔を思い出し」)、二人でジャズを歌っていたら子供を忘れて放置しかけるが、子供の「掛け声」で思い出し、最後子どもたちを連れて一家円満で終了、という流れになっていて、一貫している。

 短い中でいくつかテーマが盛り込まれており展開はどれも不十分に見えるが、シネフィルにショットとかなんとか言われてもイマイチわからない自分にとっては、一貫して音の「割り込み」を描いている潔さは面白かった。ただテーマ的には冒頭、主人公が口笛を吹きながら画家を邪魔するシーンで全てが開陳されておりその反復しかない。ここには視覚の世界に「音」を参入させるぞという意気込みが見えると思う。しかもその「音」とは、雑音に他ならないものなのだ。

(ところでハスミは、映画とは本質的にサイレントであり、「トーキーはサイレントの一形式でしかない」と言っているが、まさに派生的で余計なものとしての「音=雑音」についてデリダ的に考えてもよいのではないかと思うし、ハスミは表面上デリダをなぞっているが、余剰としての「ノイズ」を抑圧しているのではないか、と考えた。)
左藤

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