山のトンネル

スパイダーマン3の山のトンネルのレビュー・感想・評価

スパイダーマン3(2007年製作の映画)
3.5
【ピーター・パーカーの中に燻る復讐心と、スパイダーマンとして善良さを持ち続けることの葛藤を描く】

◉評価
前半の途中まで★3.8
後半まで見て★3.4
途中までは、恋愛映画さながらに登場人物の心情の変化や本作で描きたい主題が丁寧に描かれており自分好みだった。しかし、全体を通してみると、作品の中に詰め込みたい要素が多かったために、一つの風呂敷に力任せに詰め込んだ作品になってしまっている。

◉本作の要素
・ピーターとMJの結婚について
・グウェンとのスパイダーマンキスをめぐるMJとのすれ違い
・ジャーナリストとしてエディとの張り合い
・ハリーのスパイダーマンに対する復讐心
・ベンおじさんの真の仇であるサンドマンの登場
・ヴェノムの登場

▷本作のテーマが「許し」にあるとするならば、
①ピーターにとってはサンドマン
②MJにとってはピーター
③ハリーにとってはスパイダーマン
①〜③の対象が考えられる。また、ヴェノムは人が本来持つ欲望や、負の感情を肥大化させるという意味で、物語を盛り上げるアクセントとして使われる。このように捉えると、それぞれのキャラを登場させることには意味があったかのように思われる。しかし、あまりにも多面的な問題をピーター・パーカーを軸に構成せねばならず、鑑賞者はその他の一人一人の許しが軽く扱われてしまったように感じてしまうかもしれない。

◉鑑賞のきっかけ
『ヴェノム2』を鑑賞し、初期のスパイダーマンシリーズをもう一度見たいと思ったから。

◉2021年に見た感想
時代は変わった…近年のマーベルシリーズと比較すると、ヒーローの描き方が変化したと感じずにはいられない。

◉ピーター・パーカー≠スパイダーマンの時代
この映画が公開された当時、ヒーローは自分がヒーローであると名乗りを上げることはあまり主流ではなかった。初期のスパイダーマンはその典型であり、ヒーロー活動をする自分と私生活の自分を切り離す。もちろん、ヒーロー活動は生活の一部に根付いているわけなので、完全に切り離すというわけではない。社会の認識から切り離すということだ。つまり、この時代はヒーロー活動をしていることを公にせず、影で社会を守る存在としてヒーローが捉えられているのだ。それゆえ、この時代の映画ではヒーロー活動の孤独感や、それを支える仲間の存在を描き出すものが多いように思う。
しかし、最近はアベンジャーズシリーズに見るように、ヒーローであることを公にしていることが多い。例えば、トニー・スタークは自分がアイアンマンであることを世界に向けて公言しているように。

では、なぜこのようにヒーロー像は変化したのだろうか?
「ヒーローの歴史」というテーマを掲げつつ、以下に流れに沿って考えてみたい。
①そもそも、なぜヒーローは正体を隠していたのか?
②中の人がヒーローであることを公言するようになったきっかけは何だったのか?

◉考察
① そもそも、なぜヒーローは正体を隠していたのか?(追記予定)
改めて考えてみると不思議だ。仮面ライダーしかり、戦隊者しかり、マスクによって顔を隠す。今まで考えてみたことはないが、不思議である。

② 中の人がヒーローであることを公言するようになったきっかけは何だったのか?

最近は、SNSを通じて一般人がインフルエンサーとして活躍することが珍しくなくなった。スマートフォンの普及とともに、YouTubeなどのSNSを通して個人の意見が強まったように思う。

マーベルのヒーローには自分の正体を隠さずに活動する人たちが存在する。おそらく火付け役となったのは『アイアンマン』(2008年)であろう。アイアンマン役である主演の〇〇は、最後にアイアンマンについて取材を受ける際に、自分自身がアイアンマンであると告げる。これは、〇〇のアドリブであったことがのちに判明する。
ヒーローの価値観を変えたという意味で、『アイアンマン』が後の映画に与えた影響は凄まじい。

◉仮説
①SNSの普及と一般人のインフルエンサー化
②『アイアンマン』(2008年公開)が火付け役?〜ヒーローであることを公言することの一般化〜

オタクで、お調子者で、子供っぽさを残す本作のスパイダーマン。