とら

残菊物語のとらのレビュー・感想・評価

残菊物語(1939年製作の映画)
4.9
みなさま、お久しぶりです!

冬も本格的になり、観たくなる映画も変わってくる季節となりましたが、みなさまはいかがお過ごしでしょうか!?⛄️

私は中間試験が終わり、
RRR!スラムダンク!ザ・メニュー!アバター!全部行くぞ!と、意気込んだ矢先…

ついに回ってきてしまいました、あの流行病が、、。笑

たしかに忙しく、無理をしていたので免疫が落ちてしまっていたようです😱

みなさまはどうか体調にはお気をつけて下さい!🤲

体調もだんだんと良くなったので、今回はずっと気になっていた残菊物語を観ました。




まず、本作を見てまず驚いたのは、ワンシーン・ワンカットであることです。

ワンシーン・ワンカットであるということは、シーンの中でクローズアップで役者の表情を捉えたり、細かくショットを割ってテンポを上げたりできないということです。実際に本作でも、通常の場面でのカメラの動きはパンと役者に合わせてゆっくり動いていくだけに抑えられており、俯瞰で捉えた画面の中を役者が動き回っていました。この画面は舞台演出のようにも感じました。

しかし、歌舞伎のシーンだけは長回しではなく、細かくカットを割り、カメラも動かす、いわゆる映画的です。ここには違和感を感じます。

これは歌舞伎が劇中劇、つまり映画世界内においてのフィクションであるからではないかと考えました。

長回しはリアリズムと相性が良いです。映画内世界のリアルをリアリズムで表現する場合、映画内世界のフィクションまでもリアリズムで表現するのは、映画世界外から映画世界内を矛盾させている気がします。

しかし、最近の3D、4DXなどは映画のフィクション内に観客を取り込みます。本作でも映画の世界に没入できたのはワンシーン・ワンカットのリアリズムに拘って撮影された部分ではなく、歌舞伎の映画的な部分です。
ここには、映画の体験の差があるのではないかと考えます。体験する時、主体は自分にあり、映画を見る視点も自分です。しかし、リアリズム的な映像は誰かの目線です。つまり自分の眼で観る体験ではなく、無意識のうちにカメラを意識します。だからこそ、エディプスの三角形のような登場人物の関係性を冷静に、第三者として見ることができるのです。



カットの切り替わりではディゾルブを使っていましたね。ディゾルブは象徴的なカットのつなぎ方のイメージがあり、多用するのは珍しいように感じます。

詳しく観ていくと、家から出る時は家の中と外で切り替わっていますが、ディゾルブは使われていません。また、部屋を移動する時のカットの切り替わりでも使われていません。

これは時間がつながっているからではないかと考えました。つまり、時間が持続していれば普通に繋ぎ、時間の跳躍があればディゾルブで繋ぎます。これはワンシーン・ワンカットである本作でシーンの移り変わりを観客に提示する面白い方法だなと思いました。



画面のも面白かったですね。襖や壁、部屋を使って人物や物を配置し、画面に奥行きを与えていました。また長回しでは失われがちな、細かい移動、細かい場面転換もカメラの位置の工夫により違和感なく成立させていました。

長回しによる緊張感の持続、持続した時間の中での空気感、距離感の変動の表現は凄まじく、役者同士の演技のやり取りではなく、生きている人間の生々しい会話を観ているように感じました。



残菊物語を観た以前と以後で映画の見方が変わってしまいそうです。

2022ー
とら

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