カラン

私の夜はあなたの昼より美しいのカランのレビュー・感想・評価

4.0
若い頃に見たときは、何だかおかしいけど、すごい作品を観たなっていう気がしていたが、今見直してみると、狂乱の内容だが、それを意外に折り目正しく構造的に作った作品なのかもしれない。映画史にその名を残すだろう巨星にふさわしい、美しいカットが続出するし、若いソフィー・マルソーの艶やかな肢体も繰り返し出現して映画を彩っている。



以下に内容を簡単に説明した。



脳が感染症で、萎縮して、失語症になる天才数学者と、過去と未来の隔たりを超えて知ることのできる若い女のアヴァンチュール。天才数学者は脳の病気で統辞機能が失われかけているので、シニフィアンが、駄洒落的に無意味な横滑りを続ける。要するに、極度に換喩的な語りをする。そして優しさと暴力、大人の穏やかさと子供の弱さがせわしなく交代する。逆に、女の方は予言者のように、統辞機能を超越した、隠喩的な、断言に満ちた話し方をする。だから男と女は相互に補完的な関係となる。

で、数学者も女予言者も幼年期に親との間に心的外傷を抱えていた。傷を抱える者同士は、尾崎豊の歌でもなければ、そんなに綺麗に関係を築けない。数学者が幼年の頃、両親は池で水死する。この情景は、他の男女も池に飛び込み、裸も出てくるところから、実際には水死ではなく、乱行を目撃するという原光景なのかもしれない。また女の方はキッチンのような狭いところで頭を抱えてうずくまる光景がフラッシュバックする。だから、数学者と女予言者の現在には、荒涼たる海(男の原光景としての池)が広がっており、男は女の頭を掴み、廊下の壁に何度も打ち付ける(女のトラウマ)ことになる。これは、抑圧された過去の反復強迫的な表現としての現在なのかもしれない。



ジェームズ・ジョイスのように、男の語りがフランス語以外の外国語にまで広がることはあり得ないのだろうか?言語の統辞機能が失われても、女予言者以外も愛するという多形倒錯的な性愛には向かわないものなのだろうか?普通じゃない2人の小さな恋の物語に収まってしまっていないか?そんな風に余計なことばかり考えていたら、映画を観終えてしまった。
カラン

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