青雨

ターミナルの青雨のレビュー・感想・評価

ターミナル(2004年製作の映画)
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たとえば20代を生きている間は、10代の心の核心にあったものを様々に変容させながら、向き合ったり逸(そ)らしたりするように、30代では20代のそれらを、40代では30代のそれらを生きてきた実感がある。

そして、以前の年代の核心にあったものが鮮やかさを失うことで、はじめてその年代を生きはじめるところがある。

そのため、本当に20代を生きはじめるのは、実は20代半ばを過ぎてからであり、30代を生きはじめるのは、30代半ばを過ぎてからというふうに、実年齢とは5年から10年ほど遅れて、僕たちの本当の年齢は訪れるのではないか。

また、そのように以前の年代(30代なら20代)の何かが鮮やかさを失うとき、たぶん僕たちは、この映画に描かれるターミナルのような場所に立つことになる。



明記はされていないものの、本作は、イラン国籍の難民だったマーハン・カリミ・ナセリによる自伝『ターミナルマン』を原作としており、いっぽう明確に原作として撮られたものには、『パリ空港の人々』(フィリップ・リオレ監督, 1993年)がある。

同じ自伝を原作に持ちながらも、スピルバーグとフィリップ・リオレとでは、語り口が異なっている点を面白く思う。

言葉の通じなさに加え、母国の事情により入国することも、帰国することもかなわないなか、それでも少しずつ生きる術を獲得していく姿は、まさにサバイバルそのもの。人との関わりを増やしてゆき、認められ、恋をし、孤独を乗り越えていくその特殊さは、しかし、少しも特殊ではない普遍的な社会の暗喩でもある。

そのように、次第に関係を構築していきながらも、最終的には帰国するしかないのは、僕たちがそれぞれの人生において、様々な季節や舞台から立ち去っていくことを織り込んでいる。最終的には死にゆくことも含みながら。

ターミナルから出ようにも出られない状況は、様々な矛盾から抜け出そうにも抜け出せない、生それ自身のもつ矛盾であり、しかしその矛盾を抜け出したときには、疎外感が深まることにもなる。スピルバーグという人のネイチャー(資質)は、本作に限らず、いつでもこんな風に表れているように僕は感じる。

そして20代が過ぎ、30代が過ぎ、40代が過ぎていこうとするなか、再びターミナルのなかにいる自分に僕は気づく。大人とみなされる年齢になってから、3回目のターミナル体験ということになる。

その3回目のターミナル体験の渦中にあって、鈍く沈み込んでいくような感覚に襲われる。この場所に、望んで立ち止まっているわけではない。けれど、この場所に立ち止まらざるを得ない状況は、向こう側からやってくる。僕はこの場所で、再びサバイバルしなければならない。

不安に足がすくみ、未来を担保にした、かつての無根拠な力など残されていない。憂鬱さばかりが増していく。けれど、それでもと踏みしめた足場のようなものだけが、僕が手にすることのできるすべてになる。
青雨

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