こうりん

さようならCPのこうりんのレビュー・感想・評価

さようならCP(1972年製作の映画)
3.5
「中立は体制の黙認だから、それは保守だよ」と友人に言われたことがある。鑑賞中、その言葉が脳裏を反芻した。

脳性マヒ者はいつも受身だ。撮られる、訊かれる、見られる──それは「おっかない」健全者による視線の圧となって、彼を襲う。彼が赤子の将来を思うとき、浮かんでくるのは「ミニスカートで颯爽と駆けるかわい子ちゃん」であって、「みじめ」な障害者(原文ママ)ではない。だから彼はカメラを構えることにした。撮ってやることにした。膝で歩くことにした。二項対立的な健全者/障害者、自発/受身という立場を逆転することは、即座に革命へと転化する──「ちょっとオーバーかもしれないけど、世界が変わった」

もうひとつ重要なのは視点の転換。加害性を伴う「撮られる」障害者と、CP者の非随意運動によるブレた映像(「撮る」障害者)、原監督による膝で歩く(これは健全者への反逆である)視点からの映像(「撮る」障害者の視点として「撮られる」障害者)。そして、CP者の横塚氏が反射する自分を写す映像──それは、「撮る」自分であると同時に、「撮られる」自分でもある……

シークエンスの一つ一つが意味を持って、鑑賞者に絶えず問いを投げかける──それは、冒頭の「なぜカンパをしましたか」と執拗に詰問する原一男のようでもある──とてつもない映画体験。まさしくこれは「体験」である
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