ふ

茗荷村見聞記のふのネタバレレビュー・内容・結末

茗荷村見聞記(1979年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

つらつら個人的メモ

茗荷村
茗荷=ミョウガ ミョウガを食べるとボケになってしまうことからきているらしい。
村のいろんなところにボケの花が咲く。

障害のあるなしに関わらず人々が暮らすということはどうやったは叶えられるのか

あらゆる活動をしている方の言葉で共通している気がするのは"最終的にはこの場がなくなればいいなあ"ということ。
子供食堂とか施設とか居場所って、行き場のない人が集まる。安心できる。
でもそれって行き場がないから求められる場所なのであって、社会の中でいろんな居場所がそもそもあるならば作らなくてもよい。
いろんな人が目を掛け合って、関係性の中で生きて行けるのであれば、どんな肩書きや特性などを持っている人であろうとお互いが溶け込んでくらしてゆける

場所によって人は集まっている、けれどもっと分離させずに溶け込んで行けるにはどうしたらいいのだろう?

できないことがあること、ということからできるようになること、あれもこれもできるよう努力して勝ち取ることが良いこととされるけれど、できないこととか不器用なこともすごくその人の色が滲み出ていたりとってもそれも素敵なことな気がしている。

できない、だめだわたしはだめだ、というのではなくって、できないけどやろうとする姿勢がもうそれがあることがよい、と思う。できないならだれかができるだろうし、だれかのできないができるであったり。感性の違いがとってもおもしろかったり。

できるできないは他者との比較でいつも晒されるけど、そうじゃなくて
その人が前の自分と比べてちょっとでも何か進展があったらすごい!ってなる
失敗したりできない時間があっても、それは何かにまた繋がるはず

こうなければならないとか、こうあるほうがよい、という思い込みが気持ちを追い込んでしんどくなっている気がする、、、、、

どうしてもできるように、とか、できない自分だめだとか、障害がないほうがそりゃいいに決まっているとか、そういったことではなくって 
ただあなたがいること ただあなたを真っ直ぐに見つめること それが大事な気がする。
まず、自分で自分のことをまるごと受け入れること、むずかしいけれど、、
ただわたしがここにいる あなたがここにいる
ということの尊さを忘れたくない

暮らし方とかいろんな物事のやり方、手段?が柔軟になることが大事 
ふ