rio0523

十二人の怒れる男のrio0523のレビュー・感想・評価

十二人の怒れる男(1957年製作の映画)
5.0
「この方が1人で反対された、無罪とは言わず確信がないと言った。勇気ある発言だ。そして誰かの支持にかけた。だから応じた。」

12人の陪審員が死刑判決を下されようとしている少年について有罪か無罪かの議論、ほぼ一つの部屋を舞台に繰り広げる会話劇。脚本の出来の良さはさることながら、人物の配置などの映像の構図、カメラワークが見事にその時その時のキャラクター達の立ち位置、心情を表しており90分間一切緊張感を途切れさせない、どこを取っても見所のある映画だった。

冒頭、裁判所を見上げるカットから始まる。シンメトリーな建築物、映像構図、手前の仰々しい入口の柱は、権力や法の絶対的な力を象徴していると同時にどこか冷淡さを感じるカットになっている。
その後実際に裁判が行われているシーンに続き、陪審員がドリーショットで映し出される。同じように並べられた登場人物を一定の速度、一定の位置で見せる様はここにいる人物は平等な立場にあることを指している。ただし、同時に次のカットで裁判長を見せるカットの後、裁判長が構図中で最も大きく奥に12人の様子が映し出される。ここで力関係を表すと同時に視線が陪審員に言ってないこと等から、一切期待していない様子が受け取れる。また、陪審員が立ち去るカットでは被告人の少し上に立ち去る陪審員達が配置される。それを被告人が見ているという構図だが、陪審員達はチラッとしか見ず立ち去る。見つめる陪審員からその後議論が行われる場所へクロスフェードで場面転換されるが、被告人が陪審員よりも弱い立場であると同時に、彼らに期待していること、それが一方的な感情であることが示されている。このオープニングの時点でほぼ説明はないもののどのような状況から物語が始まるかを見事に示したシークエンスだった。

その後陪審員達は、最初は有罪であるという意見が多かったものの立場が変わっていく。最初は1人無罪を主張していた陪審員8番に視線を浴びせるようなショットや、立場が異なること、立場が孤独であることををカットの中で立っている位置で示している。ただ、これは時間を経過するごとに変わっていく。例えば、部屋の見取り図を持ち出して証拠を実証するシーン。当初は誰も見方がいないことを構図で示されていた陪審員8だが、この証拠の実証している時は一向に意見を変える気のない陪審員3番にその他の人が視線を浴びせるような構図になっている。また、その後陪審員4番に陪審員8番が質問をするシーンでは、始まりでは陪審員8番が構図の下で会話している様子が目立ったが、ここでは明確に陪審員8番の方が目線が上で陪審員4番の方が立場が弱いことを示している。あげ始めたらキリがないが、前半と後半での立場の移行、それに伴う力関係の変化が映像の構図ではっきり示されている。

冒頭たくさん口が回った陪審員12番や陪審員7番は後半になるにつれて意見がないが故に右往左往して黙りこくってしまう。彼らが広告マンやセールスマンだが、トイレでの会話シーン、陪審員7番が8番と会話するシーンで7番が「ソフトセル」が得意という話をする。「ソフトセル」とは商品の特徴を情緒やイメージを重視して訴えることであり、7番はこれで多くを売り上げた話をする。この映画ではこの「ソフトセル」のような個人的な感情やイメージがいかに事実を歪めているか、そして事実を歪めている本人達が、自身がおこなっている主張が情緒的なものではなく理論的なものだと思い込んでいるか、彼らが主張していることがいかに空っぽであるかを示したキャラクターの変化だった。(扇風機は付け方を思い込んで付けれないものの象徴として置かれている)。公権力や法への盲目な信頼、人の主観の疑わしさを警鐘しつつ、そこから生まれた登場人物達の偏見を剥がしていく映画であり、実際に立場が変わっていく様子は年齢や立場関係なく盲目的で頑なであったとしても人が変化することができる、寄り添うことができる可能性を見出した映画だった。(それが例え、考えを持っていない意見が右往左往するような人物であったとしても、考えるきっかけを与えたという意味で可能性)

ラスト、この映画は裁判所からそれぞれが立ち去る様子を上からロングショットで撮影している。冒頭では裁判所側を向いたショットだったが、ラストはその反対側を映している。これは冒頭と対比的に置かれたショットであり、彼らが法や権力の象徴に屈さなかった、またそこから解放された様子が示されている。

本当に素晴らしい映画でした。
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