Jeffrey

君は裸足の神を見たかのJeffreyのレビュー・感想・評価

君は裸足の神を見たか(1986年製作の映画)
3.5
「君は裸足の神を見たか」

〜最初に一言、在日朝鮮人が描いた作品の中ではダントツに美しく、初々しく燃えたつ春のかげろうの如く、映像の中で、いつもその青春の不確かな怒りに満ちた翳りを描こうとした作品で、秋田を舞台に繰り広げられる二人の青年の友情と裏切りそして一人の女。まさに夏目漱石の"こころ"をモチーフにしているかの如く、発散する青春の感情が浮き彫りになり、フルートを吹く女はギリシャ神話の女神のように写し出されている。冒頭から見る者を虜にするフォトジェニックな美しさに息を飲む〜


本作は金 秀吉が一九八六年にATGで監督した青春映画で、この度DVDにてさえ鑑賞したが良い。彼の第一作目の監督作品かつプロデューサーが今村昌平と言う巨匠が関わっている作品で、冒頭から流れるノスタルジックな映像と音楽を担当した毛利蔵人の優しいメロディーがたまらない。そして冒頭から数分間はほとんどセリフのない描写が写し出され、様々なカットバックがなされる。やはりロケ地である秋田県仙北市角館町や羽後長野駅(秋田県大仙市)、横手教会(秋田県横手市)の原風景、夏の香りが漂う私好みの作風である。しかもこの作品は出川哲郎が出演している。確かデビュー作である。今も昔も変わらないにこやかな表情だ。主演を演じた若き日の石橋保がすごくハンサムである。

本作の金監督は、在日韓国籍を持つ文学青年である。彼における故郷は韓国であり、この映画に描かれる故郷とは異質なのではないか。少なくとも主人公と東北の故郷と言う関係と、監督と韓国との関係とは、歴史的民族的に等質ではありえない。苦しみのあまり、彼は脚本そのものに無理矢理在日韓国人を登場させたことさえある。そのあげく木に竹を継いたようなその結果に絶望して自らこれを切り、そして懊悩した。当時プロデューサーだった今村昌平が十九歳の学生が書いたシナリオは、あまりにも幼く、この映画全体の構成の弱さ覆うべくもないと発言していたことを思い出す。この映画の不思議な要素は、二人いる主人公の一人が体が大きいのに非常におとなしい性格を持っていて、日本の青春映画の青年と言うと欲望をギラギラさせた、アングリータイプが多いのに対して彼は非常に感情をむき出しにしないのだ。まるでアニメを見ているような感じがする。よく漫画に体がでかいのに喧嘩が弱いと言うキャラクターが出てくるが、まさにそんな感じだ。


いゃ〜、数年ぶりに見たが初々しく、清らかな感覚、純粋さを求める強い意志に貫かれた映画である。美しく清々しい数々のショットが魅力的である。遠くに山があり、こちらに川が流れてくるようなファースト・ショットから、クライマックスのあの流血の変わり様もまたすごい。雪に覆われた田舎の風景がまた目に焼きつき、真っ白な雪景色が青空に映えて、まばゆいばかりに美しいのだ。そうした自然風景から社会コミュニティーが写し出される。われわれは視線を移すことを強制的にされるのだ。これほどまでに最初のショットが格調高い映画もまた珍しく、どうってことないよなありふれた青春映画のー本として誇りを被ってしまう映画なのかもしれないが、ファースト・シーンから太陽光線が画面いっぱいに反射する雪景色は息を飲むほどのダイナミックさと美しさであるし、この空気感がすごく良かった。

この作品を撮った金秀吉は当時二十四歳で脚本の西村は二十歳である。なんとも若い作家たちである。新聞配達のアルバイトをしている二人の高校生が登場し、彼らを通じてこの田舎町の佇まいが紹介される。配達の自転車を大きくうねるようこがせて、彼らの元気なところを見せ、この町の生活に彼らが彼らなりに充足していることを示すのだ。その彼らの健康な若さをゆったりと受け止めるように、町の佇まいにも生気が感じられていく。最初のこのカメラポジションと素晴らしい太陽光線との距離が近く、観客とその距離が縮まった感じがする。しかも主人公の男は田舎町に住んでいるが、決して貧乏ではなくどちらかと言うときちんとした生活基準を持っている富裕層側の人間であるが、なぜかアルバイトをしている。

なぜそのアルバイトをしているかと言うと、家は貧しいわけではないが、父親の希望に背を向けて、絵画を描くそのためのキャンパスや絵の具の代金を稼ぐためにバイトをしているのだ。画家志願で東京の美術学校へ進学することを学校の教師からも勧められているが、父親はそんな将来の不確な進路等選ばないで自分の仕事を継いでくれることを望んでいるのだ。もちろんそこに小さな対立があるため裕福であろうが自分の稼いだお金で欲しいものを買うしかないのだ。反発しあっている相手にねだることなどできないのだ。そうすると大局的な高校生の秀才風のタイプで、建築関係の仕事をしている父親の息子で、油絵を描いている主人公、もう一人の素朴で凡庸としたタイプの青年を基軸に始まる物語である。

そのもう片方の青年は、家では母親が威勢よく自転車屋をやっていて、彼もそれを手伝ったりするのだ。時々詩を書いている。詩ならやはり寺山修司を意識しているのか、気になるところだ。そして絵描きの青年は自信を持っている感じがするが、こちらのほうは詩人になろうと言うほどの気持ちではなく、どちらかと言うと内気な性格である。父親は以前になくなり、彼の記憶ではどうもそれは自殺の疑いがあるように思われる。母親の元気の良さにもかかわらず、そんなことが彼の心の暗い影になっており、健康で素直で元気な若者なのだけれども、どこか多少、引っ込み思案な姿勢がある。野心満々な画家青年と、素朴で善良でおとなしい彼との鮮やかに対照的な二人が、親友であることがまた滑稽である。その姿が、ごく自然に学校と田舎町とその郊外の風物の中でスケッチされていくのだ。どちらかと言うと画家青年の方が生意気で時々邪険な態度をとり、もう一人のほうはそれを常に悪気なくおっとりと受け止める。今で言う温厚な性格の持ち主なのだ。

実際に画家の青年は彼の詩が〇〇される時に邪険に扱うのだ。そういったごく自然な十代の友情関係を巧みに描いているが、所々攻撃性を含んで微妙に揺れ動く様子がこれまたよかった。主演のこの二人は新人であるみたいだが、それぞれに持ち味があって良い。二人の友情の距離の伸び縮みを、デリケートに演じていた。そして所々にフルートを吹く少女のオーバーラップがなされて画家の青年が描いている絵のモデルは、同じ高校の女生徒の菊池であり、学校のクラブ活動で部の仲間と組んでフルートを吹いている彼女を、教室の窓の外から見てその印象で描いているのだ。ここでわかる事は、決して了解してポーズをとってもらっているわけではないと言うことだ。今で言う隠し撮りならぬ隠し描きと言うべきか…。そこには思春期の強烈な憧れであり、恋愛感情が炸裂している。キャンバスに描いた二つの円に、彼女の姿がダブってきたり、描いた絵の彼女の横顔に自分の横顔を重ねたりするのは、頭の中に彼女のイメージが常日頃あると言う結果であり、それと一体になろうとしている彼の内面をごく自然に表すものである。

この映画は徐々に展開を見せていく、夏目漱石の"こころ"をヒントにシナリオを執筆したのが何となくわかってくる。もう一人の青年も結局のところキリスト教系の高校に列車で通学している少女寺島に憧れていても、結局恥ずかしげに見守るだけで話をかけられない。それはフルートを吹いている少女を好きな画家の青年と同じ立場である。主観的なのは少年のまなざしにおける少女の像だけではない。この映画は女性を見つめる目と言うものがじっくりと写し出されている。夏目漱石のその小説と言うのは、実際に同じくアートシアターギルドの中から新藤兼人監督が映画化している。内向的な男の方は恨み言ひとつ残すことなく自殺してしまうと言う悲劇な映画で、二人の青年の友情の物語であり、一方の内向的な男が熱愛している女性を、多少走った親友の青年が横取りするようにして奪ってしまい、その直後、内向的な男が死ぬと言う内容である。それも本作の主人公の青年二人に重なるところがあるのだ。どこか暗い運命を引き受けることを当然と心得ているような感じがする。

ここに悲劇のシチュエーションをそのまま持ってきた悲劇的な構造の基本的な古典を背負っているのだ。画家の青年と瞳ともう一人の青年に対する裏切りと言う事件を契機にして徐々にドラマ的な緊張を高め、それを知った青年の自殺から、映像もかなり破格の調子へと飛躍する。彼の死で苦悩する画家の青年が、父親と衝突して裸足で夜の行き道に飛び出し、小高い丘に上り、雷の光で輝く街を見下ろし、さらに汽車に飛び乗ってどこかへ脱走しようとする。この辺は急激に超現実的になっていってる感覚がある様に感じる。汽車のガラス窓に映った自分の顔が絵の具で悪魔的な形相になっているのを見てガラスを破ると外から吹き付ける寒風で彼の顔が凍ったようになる。ここはもう狂気と錯乱のイメージである。実際に佐藤忠男氏も言っているように、無垢なる己を殺した後、わざとらしい映像が表現されているが、クライマックスのこの破格な超現実の映像が良かった。

そもそも私個人が思うに、コンクールに落ちて美術大学への道を絶たれたことでそこまで荒れ狂ってしまうものなのかと言う事と、瞳が親友の男と関係があったことを知ったことで死んでしまうほどのモチベーションしかなかったのかと言うことだ。何もかもが早すぎる関係性に二人がいたことだ。こんなことで命を落としたり荒れ狂ったり死んでしまったら大人になり切れないだろう。しかしそれが十八歳の頃の青春時代なのかもしれない。こういったむき出しの感性が痛々しいのは青春映画のご愛嬌とすれば納得するかもしれないが、友を信じる男の精神の無垢さにも、自らの芸術に対する男の情熱も、何もかもが未熟で早すぎたと感じる。生き生きと活写されながら、不安定な彼らの精神や未熟さが制作スタッフと重なって見える。彼らもデビュー作であるがため、未熟さを投影しているのかもしれない。

そういえばフェリーニの作品よく出てくるふくよかな女性のような色狂いの女が本作に出てきた。本作はリリカルに描き、ペシミスティックなものではないような物語であり、主人公たちの人生体験や別世界に投げ出されるような傷つきやすい感性を持った若者たちのドラマが町や山中で映し出されていく。今思えばこの作品が作られた時は今村昌平がプロデューサーだが、彼はカンヌ国際映画祭で「楢山節考」がパルムドールに輝いた時期であり、大いに新人監督としては緊張したのではないだろうか、実際に秋田県のロケ地で監督と彼らは合っているし、新人であった石橋や洞口もただの新人と言う感じではなかった。確か後者の女優は日活ロマンポルノとして制作された後ディレクターズカンパニーで自主配給された黒沢清監督の「ドレミファ娘の血がさわぐ」のヒロインとして既にかなり世に名を知らしめていた。

石橋があんなに日焼けしているのはロケ撮影だったためと言うよりかは、実際に彼がサーフィンをやっていることがかっこいいと思ってそれに明け暮れていた結果、日光に当たりすぎて日焼けしたんだろうなと勝手ながらに思う。しかも彼は映画なんてろくに見たことがなかったと言っていたし、サーフィンに夢中になっている若者だった。確かもう一人の青年の主役の児玉は京都生まれのー橋大生で親の出身地の角館に遊びに来ていてスカウトされたと記憶している。ここで少しばかり金監督について話したいのだが、彼は今村昌平監督の松竹の傑作「復讐するは我にあり」(緒形拳主演の中でも最も素晴らしい映画)を見て、映画作家を志して今村学校の生徒になり、ー年在学中に"ユンの街"を書いて、第七回城戸賞の準入選となっている。ちなみに彼は身長も高いが体重百キロ越えの巨漢である。確か東陽一監督の「湾岸道路」のシナリオを共同執筆していたと思う。

最後に余談だが、横浜放送映画専門学院ー年の時に同学院のシナリオコンクールに入選したこの映画のシナリオ書いた西村は秋田県出身だったな。秋田県出身だが角館ではなく大曲市に生まれ、高校まで過ごしていたため、映画の舞台を大曲から角館に移したのは今村監督が「ええじゃないか」の撮影で角館をよく知っていてアドバイスしてくれたからだろう。
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