青雨

タクシードライバーの青雨のレビュー・感想・評価

タクシードライバー(1976年製作の映画)
4.0
映像からなんらかの匂いを感じることはあっても、これほど鮮烈なものを嗅ぐことはほとんどないように思う。あまり想像したくはないものの、もしかすると人の肉が焼けるときも、こんな感じなのだろうか。

ここに描かれるトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)のように、ジリジリと自らの肉体を焦がしながら、まるで内圧で骨を砕いてしまうようなものを、僕は心や体に宿したことがない。焦燥でもなく、嫉妬や憎しみでもない。

いったいこれは何なのだろう?

その熱源は摩擦というよりも、世界中の気圧を集めて、1人の肉体に閉じ込めたような印象がある。本当はそんなものを、個人にかけてはいけない大きな圧力。それがベトナム戦争だったのだろうか? 帰還兵のPTSDと言ってしまえば、そうなるかもしれない。けれど、PTSDなどと言われても、本人にとってはほとんど意味をなさないようにも思えてならない。

夜のニューヨーク。

You talkin’ to me?
お前か? 俺に言ってるのか?

彼の痛みは、日常に溶け込み過ぎているため、むしろニューヨークという街が、焦げつく匂いを放っているとしか思えなかったのではないか。走るタクシーの窓をうつ雨は、荒廃した街を流し去るノアの洪水などではなく、流すことを忘れた彼の涙なのかもしれない。しかし、流されるべき涙が流されなかったことによって、にじむネオンのようにいっそう世界は歪んでいく。

彼が過剰な何かを追い求めたのではなく、過剰な何かが彼に何かを求めた。彼には差し出すものなど何もなかったにも関わらず。ただ誇りを求め、ただ恋に憧れた。だからその過剰な何かは、平凡な1人の男の肉を焼き骨を砕くことにした。



マーティン・スコセッシが、どういうつもりでこの作品を撮ったのかを僕は知らない。結果として、この作品はアメリカン・ニューシネマの名作ということになっている。しかし、そんなふうに言われた作品はきっと、当時30代前半だった青年ロバート・デ・ニーロのように問い返すに違いない。

You talkin’ to me?
お前か? 俺に言ってるのか?

そのように、1つの表現様式をこの作品に当てはめることは、トラヴィスに向かって帰還兵のPTSDだと告げることに等しい気もしてくる。

誇りを求めた善意や、喜びを求めた恋は、軋(きし)むように空回りするばかりで、焦げつく肉の匂いばかりが増していく。やがて暴走した狂気が、たまたま帳尻(ちょうじり)をあわせ、正気では果たせなかったヒロイズムを獲得してしまう皮肉。

その様子に、70年代のアメリカの象徴を見てとることもできるかもしれないものの、スコセッシはニューヨークの裏窓から、ただその姿を目撃したように撮っているように僕には感じられる。そして、象徴性よりもっと手前の皮膚感覚で捉えたものを、1つの「アメリカ人の原像」としてスクリーンに映し出した。

何かを背負わされたのは平凡な1人の男。しかし、彼は背負わされた何かに見合ったものを、決して差し出そうとはしない。ロバート・デ・ニーロはそんなふうに役を生きているように感じられる。

この映画をかつて観たとき、タクシーのルームミラーに映るトラヴィスのまなざしを、僕は深夜の鏡に見たような気がした。しかし、今振り返ってみたところで、やはり彼が口にする言葉にたじろぐ自分がいる。

You talkin’ to me?
お前か? 俺に言ってるのか?

安易な共感などこの作品は受けつけない。ただ焦げつく匂いを嗅ぐしかない。軋む骨の音を聞くしかない。オスカーが無冠だったのも、この作品にふさわしいように思う。
青雨

青雨