ゆーきまさ

レオン 完全版のゆーきまさのレビュー・感想・評価

レオン 完全版(1994年製作の映画)
4.2
点数だけつけていたが、たまに見返すので、その度に思ったことを書き連ねてみたいと思う。


「エディプス・コンプレックス」
 エディプスコンプレックスとは、幼児が人生の最初期に抱く葛藤のことである。この葛藤を男児に例をとって考える。男児は、不安を解消してくれる母親に愛情を感じる。そして、母親との関係を妨害する父親を憎む。しかし、男児が母親の身体を目撃すると、母親には男性器がない=去勢されていると思い、自分も去勢されるのではないかという不安を父親に抱く。男児は、ここに葛藤を抱える。この葛藤を解消するために男児は、母親の愛する父親のようになろうとし、父親と自分を同一視するようになる。つまり、母親を諦め、父親のようになろうとして、母親とは違う人物を選ぶのである。この同一視によって、男児は、父親のもつ道徳性をそなえる。女児も同様に母親を愛するが、母にも自分にも男性器がないことから、母親を憎み、父親を愛するようになる。やがて、女児は父親を諦め、母親のように、父親とは別の人物を愛する。この葛藤から、精神分析における自我発達が生まれる過程をエディプスコンプレックスと呼ぶのである。
 このエディプスコンプレックスは、さまざまな物語世界で散見できる。それは、フロイトによってこの概念が発見される以前から物語世界で見られる。それもそのはずで、だからフロイトはギリシャ悲劇のオイディプス王の話からこの名前をとったのである。
 現代の物語における、このエディプスコンプレックスの例を見てみたい。『レオン(原:Léon The Professional)』(1994)という映画がある。この映画は概要を説明すると、プロの殺し屋のレオンはニューヨークで仕事とは似合わずひっそりと暮らしていた。学校にもいかない不良少女マチルダは、ある日悪徳警察に家族を惨殺される。隣に住んでいたレオンに助けられたマチルダは、家族(弟)殺しの警察に復習すべくレオンに弟子入りを申し込む。マチルダが復習に燃えれば燃えるほど、警察は次第にレオンに目をつけはじめ、レオンの静かなる生活は壊れようとしていった。というような物語である。言葉を選ばず言えば、これは少女マチルダと中年の男であるレオンの恋愛映画なのである。普通の倫理観からすれば、中年男に修行だからとはいえ、ほうぼう連れ回される少女の恋物語という内容は非常にグレーゾーンな話である。しかし、この映画は20年以上経つ今でも若者に圧倒的な支持を得ているのである。アクション色が強いにも関わらず、特に女性に支持されている映画である。それには、普通の恋愛映画にあるような肉体関係を連想させるものがない、非常にプラトニックな印象を受けるからである。このプラトニックさは、単にそのようなシーンが存在していないからというわけでもない(完全版では、少女マチルダがレオンを初夜に誘うシーンもある)。その理由として、少女マチルダとレオンの関係は、エディプスコンプレックスで説明のつく話に回収されており、レオンをマチルダにとってある種の父親として描いているところにプラトニック性が生じているのであると思う。というのも、マチルダの家庭環境は非常に悪いものであった。ぶっきらぼうな父親に、愛してくれない継母。マチルダが復讐に燃える唯一の理由は、大好きな家族を殺されたからではなく、とても好きだった弟が殺されたからという理由のみであった。つまり、母親のことも元から愛していなければ、父親も愛していなかったのである。そこに、不安を解消してくれる男性が現れたことから、その人物=レオンを心的父親だと思い、愛するのである。また母親が愛した人物とは違う人であるレオンを恋愛対象として愛するのである。しかし、前者の占める愛が大きいゆえ、この映画のもたらす印象はさほど性的倒錯を連想させるものにはなっていない。レオンは、命を持って、悪徳警官とともに自爆し、マチルダを助ける。その後一人になったマチルダは拒否していた学校に逃げ込むのである。この図式は、子どもが限定された人間関係およびその中で生じる葛藤から脱出し、外部の世界と関係を作っていくというエディプスコンプレックスの図式と重なる。つまり、レオンは、警察から逃げるための存在だったというのが表向きの存在理由で、真には、家族という限られた閉鎖空間の延長の象徴であり、マチルダが、その延長された閉鎖空間で理想的な父親への愛を回復するための踏み台であったということだ。その踏み台を乗り越えたからこそ、学校に戻る、という外に開かれた関係を取り戻すのである。
 このように、若干の変更や省略はあるものの、現代においてもオイディプス王のエディプスコンプレックスを基にした物語の形は継承されている。