もりひさ

ゴーストワールドのもりひさのレビュー・感想・評価

ゴーストワールド(2001年製作の映画)
5.0

転職先で、馬が合う事務員の方が、私の中で⭐︎5です!とおススメしてくれた作品。観ない理由がない。

最近、よく考えることがある。
人は、社会性を纏ったカテゴリーの中でしか生きる事ができない、そこから逃れる術はないのだと。

人として、社会人として、男として、女として、若者として、年長者として、恋人として、結婚相手として、父親として、夫として、母親として、妻として、ビジネスパーソンとして、キャラクターとして、話し合い手として、表現者として、自分はどうなのか、相手はどうなのか。あらゆる属性の中でお互いに価値を判断し合って、くっついたり離れたりしながら生きている。合うな〜合わへんな〜とボヤキつつ。

せっかく自立したと思っても、気がつけばカテゴリーの規範に押し込まれている。

主語が大きい話は大きい分だけ、ひとを疎外したり傷つけたりする。中年男性のシーモアが、まだアルコールを摂取できない年齢の少女イーニドに対して「君は若すぎる」と言い放ったシーンが象徴的。シーモア自身も「若い子はこんなオタクジジイに興味がない」と、自分で自分をカテゴライズし、無意識にバリアを張ることで自らを守っている。

シーモアほどまだ歳は食っていないが、すごく気持ちがわかる。さまざまなカテゴリーの中で認識する自己は、もういい歳なのに、こんなコトバしか出てこないのか、こんなにも仕事ができない上につまんない存在なのか、ってな具合に圧倒的な物足りなさを感じる。お金がなくてキモいの一言で否定できてしまう自己。その至らなさをごまかすべく、無理して背伸びしたり、嘘をついたり、合わせたりしてしまって、さらに苦しくなる。目の前の相手には申し訳なさしかない。ただただしんどい。カテゴリーを取っ払った自分を見てほしい、、、

でも自分らしさなど出す必要はないのだ。イーニドのようにらしさを少しでも出そうものならば、バイトは初日でクビになり、親友とは喧嘩をし、新聞沙汰になったりとめんどうなことになる。出る杭は打たれるだけ。

そもそも、自分らしさなるものも本当に存続するのかどうか怪しい。どんな人の考えも、所詮他人が考えたことをコピーして、あたかも自分がそう考えたって思い込んでるに過ぎないのではないか。完全にオリジナルなものなんてない。

ゴーストワールドでは幽霊のように生きるしかない。皆同じように。

どうしても相容れずに、とうとうひとりぼっちになったイーニド。唯一の心のよりどころは、来るはずのないバスをいつまでも同じ場所で待ち続ける老人。あなたが変わらずそこにいればそれだけで安心する。
だがその老人もとうとう行き先のわからないバスに乗り込んでしまった。運転手さんそのバスに私ものっけてくれないかと言わんばかりに、イーニドもバスに足を踏み入れる。
お節介な僕は、画面に向かって思わず声をかける。君はまだ若い、人生はあなたが思うほど悪くないと、元気を出してと。だが所詮、カテゴライズされ形骸化された言葉だし、僕は竹内まりやではないから、イーニドには決して届かない。物語は終わりを迎える。

社会性を纏ったカテゴリーの中でしか生きる事しかできない、イーニドのようにバスに乗れない僕らはどうすれば良いのだろか?
貧乏か、ハングリー精神かという相談者の問いに対して、中原昌也氏が答えた内容がふと頭をよぎる。

「第三の道はないのかなぁ。そういうことから解放されるために、映画や音楽や文学があると思うんですがね。違うかなぁ」

蓋なしの自己になって、ひとまず音楽を聴こう。イーニドにもぜひ聴いてほしかった、坂本慎太郎の幽霊の気分で、という一曲。

さてどこへ行こう 何になろう
幽霊の 気分で
さて何をしよう 何になろう
透き通る 身体で

良い映画を教えていただき、ありがとうございました!
もりひさ

もりひさ