百合

トリコロール/白の愛の百合のレビュー・感想・評価

トリコロール/白の愛(1994年製作の映画)
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平…等……?

トリコロール3部作二作目。「自由・平等・友愛」の「平等(=白)」を扱った作品。フランス政府の依頼を受けて作られた作品らしい。
ストーリーテリングが巧みで、ムダな細部がなく説明臭くなくすばらしい。娯楽性の高い作品だといえる。
しかし「妻に一方的に捨てられた夫の復讐劇」的なレビューが多いのが興味深い。わたしにはこれ「コミュニケーションのできなさ」と「平等の不可能性」の話に映った。
「平等の達成」という目でこの物語を見たとき、目につくのはやはり冒頭の「言語的に不利な夫」の姿がラストで「言語的に不利な妻」の姿に回収されたところだ。
また「放火の罪を着せられた夫」は「殺人の罪を着せられた妻」として回収される。
この構造だけ見ていればたしかにシンプルな因果応報、夫が妻にされたことを同じだけやり返している物語に見える。また、どうやらやり手の妻に、妻の母国ではやりこめられていたらしい夫が、夫の母国では成功したので、妻との性交渉に成功する、という大まかな筋も、「低いところにいた夫」が紆余曲折を経て「のし上が」った(妻と同じ位置に上がった)からこそ可能になったのだ、ということができる。
しかし、本当にそうだろうか。
そもそも妻が夫を一方的に捨てたのは性的な不満足が原因なのだが、これはよく考えてみれば夫が妻を一方的に(性的に)拒んでいたから起こった不平等である。そりゃあ男性というプライドやプレッシャーに負けたんだよ、それを男のせいによる不平等と呼ぶのは酷だよ、という話かもしれないが、妻の目から見ればどう考えてもはじめに一方的に拒まれたのは自分の方なのだ。だから妻は不憫な夫を拒絶し返す。
そんな妻なのにもう一度夫と性的にコミュニケーションをはかろうとする、あの唐突にも思える美容院でのシーンはまだ彼女が夫との可能性を感じているからに他ならない。そして、だからこそ妻は夫に放火という罪を被せたのだ。
あまりにも不自然な濡れ衣と、それに唯々諾々と従う夫の情けない様は、観客から夫への同情を引き出すものかもしれないが、夫を拒絶しきっていない妻から仕掛けられたことを考えれば、これは夫への新たな遊戯、コミュニケーションととらえることもできる。彼女は一見酷すぎる方法で、夫に何かを与えたかったのだ。
夫はもちろんいまだ妻を愛しているからこそこの遊戯に乗る。そして紆余曲折あって、彼らは一瞬の完全に相互的なコミュニケーションへと到達する。それがようやく行われた夫婦の性行為である。
しかしこれは、シーソーゲームの最中に訪れる刹那的な平衡状態と同じで、瞬く間のうちに次の不均衡へとなだれ込む。今度は夫が妻へ、冒頭にされたのと同じ形で遊戯を持ちかけ(つまり殺人の濡れ衣)、妻はそれに乗る。
だからこそラストシーンはあの形になったのだ。もう一度始まった不平等の状態で、二人に持たれる身体的なコミュニケーションはまた一方的でなくてはならない。妻の手話と、それを見て涙を流すだけの夫の姿は、身体的に語りかけていた妻とそれを拒絶する夫(性的不能)のふたりの様へと還元していく。
平等な状態というのはこのように奇跡的な一瞬にしか発現しない。そして彼らはこれからも何度も、このサイクルを繰り返し続けるのだろう。この滑稽な遊戯を通して。
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