harunoma

孤高のharunomaのレビュー・感想・評価

孤高(1974年製作の映画)
5.0
苦しいわけではない。苦しみは暖かさに醸成されていくから。すべてが終わったあとにしか、私たちは映画を観れない。はじまりの関係の予感は、レンズを覗いているガレルだけにあったか。ジーン・セバーグを撮る権利は?彼が作家だから?彼は作家だが、つつましい現実の、生活の倫理はある(その点もちろん露悪的な作家とはまったく違う)。ジーン・セバーグはフィルムに殺されはしない。そんなことは誰にもできない。断片に、光の中で(闇の中ではなく)揺れている、イメージ、顔、花たち。バルコニーより地平の路上は、いくらか平穏になる。ポートレートに厳しさなどいらない、ただ時間があるだけだ、共有した。それは水になるか粘性になるか。この映画を観たと声高に言うべきじゃない。これはガレルが亡くなった後に、彼の昔の抽斗から見つかる類のものだ。そのほうが粋だ。
アンスティテュの上映後、場内に灯りがつく。若いカップルの女性が、立ち上がり叫んだと言う。こんな映画を観る人は、みんな狂っていると。これはこれでおもしろい逸話だが、私は、観終わって、いいや随分と普通で、明るい映画だ。と思った。ママと娼婦の時も、同じだった。伝説とあの陰鬱なモノクロのスチール。デュオを撮るときにママと娼婦の再録シナリオが載っているパンフレットを現場に持っていたという諏訪敦彦も、いくらかセンチメンタルに陶酔気味に、ママと娼婦を語っていた。しかし観るとどうだろう、不気味なほどに明るい、レオーだからか、もちろん、所詮観る前の私の先入観でしかないが、それにしてもポップだ。あんまり映画作家の映画を、適当に流布された伝説の雰囲気だけで、頭に思い浮かべるべきではないと思った。やはり印象の自由は、集団ではなく個人の権利だ。だからガレルなりユスターシュを(あるいは今ならダルデンヌを)、ある共通の既成のイメージの中だけで語る人を、それからは信じなくなった。勝手にやってくれ。そして、上映後に何を叫んでもいい、それも自由だ。
ところで、あいかわらず何も言わないんだな。
そうだな。映画は忘れるために観るものだから。
と言っても、もう一度この映画を観る時が来るだろうか。わからない。あなたの、内なる傷跡をさっき見ましたよ、そこで。おもしろかったです、なんて言ってくる卑劣な奴に街角で出会ったら、かるく殴ってみよう。それもひとつの応答になるだろうから。
いつかまた会おうギャレル
harunoma

harunoma