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ココ・アヴァン・シャネルのhigadesignのレビュー・感想・評価

ココ・アヴァン・シャネル(2009年製作の映画)
3.5
20220526-157
1893年、フランス中部オーバジータ
1908年、フランス中部ムーラン
原作:エドモンド・シャルル・ルー
美術:オリビエ・ラド
孤児院、ナイトクラブで歌う歌手、洋服仕立て屋、帽子づくりで評判
良質な嫌悪感
ロケ地:フランス/オルヌ/ハラス・ナショナル・デュ・ピン
シャネルは第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるフランス占領の間、ドイツの外交官・諜報員であったハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵と交際し、ドイツ当局に協力的な姿勢を取っていた。ドイツの敗北後、「裏切者」たちが枢軸国に対する協力者として訴追される中、シャネルは処罰を免れたが、この対独協力行為(コラボラシオン)は戦後の彼女の評価に影響を与えており、しばしば議論の対象となっている
ヴェルテメール兄弟はドイツによる占領の前にフランスを離れアメリカに亡命したが、反ユダヤ主義を前面に出すドイツの下でパルファム・シャネルに対する自分たちの財産権が安全でないことを予想し、1940年5月にフランス人カトリック教徒(即ち「アーリア人」)の実業家・事業家フェリクス・アミオにパルファム・シャネルの株を売却した。アミオは以前からヴェルテメール兄弟の知己がある人物であり、ドイツ当局とフランスの行政組織はこれがユダヤ人であるヴェルテメールの資産を守るための目くらましに過ぎないものと判断し、突撃隊(SA)が彼を連行して尋問した。
この時、パルファム・シャネル社の「アーリア化」が実際に行われているかどうかを調査するべくヴィシー政権によって任命された臨時行政官ジョルジュ・マドゥーは、1931年までパルファム・シャネルの取締役を務めていた人物で、ココ・シャネルと密接な関わりを持っていた。シャネルはこの状況を利用できると考えた。マドゥーが「アミオ氏の主張はまったくの虚偽だと思わざるを得ない。パルファム・シャネルはまだユダヤ人の企業だ」という結論を出した後の1941年5月5日、シャネルはマドゥーへ「私は、パルファム・シャネルの全株式の買い手となります。…これはいまだにユダヤ人の所有となっていますが、あなたはアーリア人にこれを譲渡するまたは譲渡させる任務を担っています」と連絡し、(アーリア人である)自分が同社を所有することで「アーリア化」は実現できると主張した。さらに「私は明白な優先権を持っています。......この事業の創設以来、私が自分の作品から受け取っていた利益は不当なものです。......過去十七年間に私が苦しめられてきた偏見をある程度修正していただけるものと考えています」とも書いている。第三帝国の法に照らせば、パルファム・シャネルに対する所有権は「今だユダヤ人の財産」になっているが、所有者であったヴェルテメールらはすでにこれを法的に「放棄している」状態であると解釈可能であった。
アミオは度重なる尋問を受けるなど、その立場は安泰とは程遠かったものの、賄賂などを駆使し第三帝国の支配地においてシャネルNo. 5の販売を維持し続けた[23]:194。こうして、ヴェルテメール兄弟の予防策は成功し、シャネルの試みは阻止された。アミオは戦後にパルファム・シャネルをヴェルテメール兄弟の手に返した。
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