慢性眼精疲労でおます

ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマンの慢性眼精疲労でおますのレビュー・感想・評価

5.0
ここまで来るともう映画なのかどうかもわからない。なんとかラボの体験型アートはそれはそれでキャッチーな驚きや感動があるのかもしれないけど、どこか子供だましのつまらない偽物だと思ってしまっていた。体験型アートという言葉はこの映画にラベリングするほうがしっくりくる。

前情報を調べず、ジャンヌという(名前を後で知る)若い風にもそれなりにも見える女性がキッチンらしき部屋のテーブルに両ひじをつく写真と、やたらに長く具体性があるようで曖昧なタイトル、そして耳に残る監督の名前だけを作品の情報としてインプットし、こんなところで映画上映してんだ知らなかったなと思いつつオンラインでチケットを買い、会場に着いて2022年の何かのベスト1とかだと初めて知り、目も髪もくりっとした妙齢の女性にQRコードを読み取らせて席に着いた。席に着く前に、くりっとした女性が「自由席です」と僕以外の誰かに説明する声を背中で聴きながら、席に着いたのだった。

館内はそれほど混み合っておらず、ただスクリーンからの距離と時間--見間違いでなければ--17時30分〜20時50分と書いてあったはずだ--3時間以上も何を見せられるのかほとんどわからないが、洗面に行く可能性を見据えて通路側の、前から2列目の席にかけた。

ゴダール特集の予告映像が流れる。このうちの何本かは見たことがあるものだ。ゴダールが亡くなってそろそろ半年経つのか、もう経ったのか?それにしてもスクリーンが思いのほか大きかった。もう少しだけ後ろの席にすればよかった。他の客は適切な座席を選んだのだろうか?通路の向こうに座る3人組の若い男たちは「真ん中空いてるよ」「移ろうか?」などと話し合っている。

移るのかな?と思い、足をひきますよ、という合図を送ろうとそちらを見やった瞬間に本編らしき映像が始まった。それは本編だった。普段見ている映画とは違って(それがフィルムによるものなのか映画館が決めることなのかもわからないが)、本編になるとスクリーンのかたちが変わるようなことはなかった。だから見落としてもよさそうなものだが、なぜだか理解した。これは本編なのだ。

しまった、そもそもこの映画に日本語字幕は付いているのだろうか?場所が場所だけに、見た目は日本人でもフランス語のわかる人ばかりかもしれない。そもそもこの映画はフランス語の映画なのだろうか?英語ならわかるかも知れない。しかしフランス語ならお手上げだ。待てよ、ブリュッセルってことはベルギーの映画だ。なに人が作ったにせよ、ベルギーに住む人はフランス語か、そうだ、ドイツ語の可能性もある。

「いらっしゃい」

日本語の字幕が見えた。いま確かに見えたはずだ。女性の発した言葉は日本語ではなかった。しかし意味がわかった。

「いらっしゃい」

そう言ったはずだ。つまり、日本語に翻訳されていたのだ。そしてその情報を媒介したのは音声ではない。だとしたら文字しかない。日本語の字幕がついていた。ほっとしたのもつかの間、途切れなく続く映像に目を凝らす作業に戻った。

何分経過したのかもわからない。ただダラダラとした日常が繰り返されている。繰り返されているようで、少しずつ何かが違ってきている。フランス語で1はプルミエ、極めてわかりやすいが2はドゥー、、なんとかだ。やたらと長い単語だ。英語ならsecondで済むことなのに。

2日目を終えたということは、つまり気づけば3日目だった。

彼女の3日間のなかで、何かがきっかけになったのかもしれないし、何もきっかけではないのかもしれない。寝室にハサミがあったことが故意によるものなのか、神経質な彼女の何かが少しずつズレた結果としてたまたまそこにハサミを置いてしまったのか、それもわからない。

ひょっとしたら何らあらかじめ準備されたものではなく、その客の蓄えた口髭が写真に写る男と似ていた、ただそれだけのことかもしれない。我々には、僕には知る由もない。知る必要もない。

そうやってジャンヌをプロファイリングすることに意味があるのかどうかもわからない。どんな結果にも理由を求めてしまうことそれ自体に意味がないのかもしれない。作り手に目を向けてみて、ジャンヌという名前がフランス語圏で特別な意味を持つことを踏まえて狙ったのかどうかもわからないし、そんな意味があるのかどうかもわからない。事実がどうであれ本作とはまったく関係がないのかもしれない。

ただ、わからないからわからないままにすることが正しいとはまったく思わない。わからないなりに仮説を立てることはできるのだ。それが100%正しいことはないし、1%も合っていないこともないだろう。そうやって答え合わせを繰り返しながらいつ果てるともない時間をやり過ごしていく。やり過ごすという動詞は少しネガティブかもしれない。ただ淡々と過ごしていくし何もしなくても勝手に過ぎていく。

その間に向き合うものはいくつあるのか?向き合うべきものはない。何と向き合うのか自分で決めて構わないし、決めなくたって構わない。

ジャンヌが向き合ったものはなんだろうか。女性としての自身かもしれないし、自身の女性性かもしれない。または時間かも知れない。時間の長さかも、短さかもしれない。あるいは他のこと--例えば何もない、虚無かもしれない。僕が向きあったものはなんだろうか?うまく言えないけれど、うまく言うことが正解だとは限らない。うまく言わないほうが、うまく言うよりも、ジャンヌとほんのわずかでも多くわかり合える気がする。まあ、いずれにしてもほんのわずかかも知れない。

--すべては錯覚かもしれないけれど。