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なみのおとのHiRoのレビュー・感想・評価

なみのおと(2011年製作の映画)
4.0
 被災の風景はほとんどない。あるのは、語ること、そして聞くことである。はたして、本作は映画という表現媒体を用いる意味があるのだろうか。

 冒頭の紙芝居から被災者が体験を語るまで、そこには発声された単なる「おと」ではなく、複雑に絡みあった「言葉」がある。その言葉に鑑賞者は、「言語の物質性」を感受することだろう。だが、その言葉は、自己が所有している言葉だろうか。
 被災者は、たびたび「故郷」のことを口にする。だが、故郷とは何か。われわれは、「先験的な故郷喪失」(ルカーチ)者ではなかったか。だからこそ、被災者たちは、インタビュアーの故郷に関する質問に対して、確かに答えることができないのだ。故郷とは「無」(廣松渉)であり、実体は、存在しない。無論、言葉も、である。
 言葉は故郷をもたないーー。しかし、われわれには言葉しかない。
 「カメラの前で演じること」(濱口竜介)、カメラで撮影することによって生じる言葉がある。本作は、その瞬間に自己と他者が混じり合う。本来その言葉は語られることのなかった言葉でもあるだろう。
 言葉は、「なみのおと」にすらかき消されてしまうほど脆いものでもあるだろう。だが、過去から現在まで語られてきた無数の他者との対話は、水平線の彼方からたしかな「こえ」として到来してくるのである。
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