受け渡されるべきものが、受け渡されるとき、受け渡した者は、受け渡された者のなかに生き続けることができる。
このことの切実さ。
少しずつ前進していくタイムループものとしては、『恋はデジャ・ブ』(ハロルド・ライミス監督, 1993年)などと類型的であるいっぽう、今振り返ってみると、「ギタイ」と呼ばれる宇宙からの侵略者たちは、僕たちが潜在的に抱えている様々な攻撃性のようにも感じられる。
原理や現象などは解き明かせたとしても、その力を食い止めることはほとんど不可能に近い。
主人公のウィリアム(トム・クルーズ)は、宇宙からの侵略者であるギタイとその母体であるオメガと文字通り死闘を繰り広げ、様々な選択肢を試していくなかで、死ぬことでしか前に進めないという、背反した状況を繰り返していくことになる。
そうした感覚は、僕が少年期から向き合ってきた、様々な形での(その多くは無意識的に秘められた)暴力性と言ってみてもいいかもしれない。
この作品については、ハリウッド映画らしい解決を最終的に迎えることになるいっぽう、僕にとってのポイントは、何度も象徴的な意味での死を繰り返しながら、暴力性と拮抗(きっこう)しようと対峙し続ける姿のほうにこそある。
そうした意味で、『All You Need Is Kill』というタイトルは、おそらく「Kill myself」を含んだ意味での『All You Need Is Die』でもあるだろうと思う。日本のライトノベルが原作であるため、もしも文法や通りの悪さがあったとしても、英語圏でのタイトル『Edge Of Tomorrow』よりずっと冴えている。
この映画が生の実感に訴えるものがあるとするなら、勝利や解決よりも、何度でも象徴的な意味での死を繰り返しながら前進していくしかない、カウンター性のほうにある。勝利や解決は目標であったとしても、今この時を支えるのは、おそらく対峙し続ける意志や力のほうにある。
だからこそ、ウィリアムにとってのリタ(エミリー・ブラント)という存在が、どれほど重要だったのかが痛切に伝わってくる。
いっぽう、どれだけの人が、リタに出会えただろうとも思う。けれど、もしもリタと巡り会えなかったとしても、僕たち自身が誰かにとってのリタになれたなら、心という時空のなかでタイムループするように、リタと出会うことになるのではないか。
たぶん、そう信じてみるしかない。