テテレスタイ

聖者の谷のテテレスタイのネタバレレビュー・内容・結末

聖者の谷(2012年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

この映画は、田舎暮らしの主人公が「ここには聖者がいない」という良く分からない理由で都会へ行こうと決意するところから始まる。

しかし最後まで映画を見ても、聖者がいないから都会に行くという理由の意味が分からずじまいだった。うーん、うーんと考えると、あーそうか!ってなった。

ベタな解答かもだけど、主人公自身が聖者だったっていうオチだと思うw
映画の中盤では主人公の優秀さがアピールされてたし、主人公は最初から最後まで(イスラム世界における)人格者であったし、たぶん、そういうことだと思う。

聖者は最初から完璧だったわけではなく、良く生きることで完璧へと近づいていくんだよ、自分の可能性に気づいて!みたいな話。映画のラストでは、主人公は今まで暮らしてきた自分の故郷で暮らし続ける決意をしたみたいだし、彼が水質問題や紛争問題を解決に導いてくれる聖者となる未来が訪れることを期待したくなる。

問題は、なぜそんな聖者の資質を持った主人公が、これまで水質問題を真剣に考えてこなかったのかだ。これはいわゆる「茹でガエルの法則」なのだと思う。徐々に水温が上がっていっても気が付かず茹でガエルになって死んでしまうという法則(実際には否定されてる)。

おそらくこの主人公はずっと聖者の谷にいたことで水質が悪化していることに気が付けずにいたわけだ。そしてずっとそこで暮らしてきたからこそ、水質なんて悪化してないと実体験をもって確信してしまっていたのだろう。映画の序盤で「自由を」というスローガンを叫んでいた一団がいたが、それは俺たちのやりたいようにやらせろ、外から来た奴らの勝手な意見は聞きたくないという意味にも解釈できる。

ただ、主人公がこの先、水質問題を解決できたとしてそれはそれで問題が起こりそうではある。水清ければ魚棲まずというわけではないが、聖者の谷が高級リゾート地になれば、そこに相応しくない人々は住めなくなる可能性がある。水質を悪化させないようにするために上下水道などのインフラ整備が行われ、その利用が義務化された場合、維持管理のコストが発生するため、そのコストを負担できない住民はもうそこには経済的に住めなくなる。主人公の親友は主人公と同様に貧乏だったが、水質調査の女性は留学にいけるくらい裕福だった。その二人が主人公の領有権を巡って争い合ったのはまさに主人公を聖者の谷に見立てた比喩なのだろうし、そして、主人公の家が貧乏だったこともそういう貧富の差の問題を想起させる目的があったのだと臆見したくなる。

自分たちのために故郷を良くしたら、しかし、そこには住めなくなるという矛盾を抱えた場所からは逃げ出したくなる。でも別にすぐに完璧な水質に戻す必要もない。コンポストとか雨漏りの修理とか出来ることからやばればいい。着実に。強い意志をもって。

この映画の教訓は、当事者だからこそ自分たちに対して過剰な自尊心を持ってしまうという人間の普遍的な性質への戒めだろう。しかしながら、それとは正反対に、自分の可能性を信じろというメッセージも併設させている。一見矛盾しているように感じるし、その2つのメッセージを両立させることは困難なように感じる。だからこそそれができる人こそが聖者の気質をもった人物と言えるのだろう。