angie2023

百円の恋のangie2023のレビュー・感想・評価

百円の恋(2014年製作の映画)
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ぐにゃぐにゃだった身体に、真っ直ぐな線が見える。
すごい映画を見た。身を乗り出して、その結末を待った。
私は自らの身体の変化を経験しているからこそ、ぐにゃぐにゃの脂肪の塊が、筋肉の塊へと変貌することの過酷さと、美しさに胸を打たれる。
彼女は、それを、やった。
フィクションの中の彼女も、そして安藤サクラも、それをやったのだ。その苦しさと美しさが、この映画のなかに封じ込められている。だめだ、この素晴らしさをこのままにしてはだめだ。公開からだいぶ経った今、私は急速に、この映画の凄さを語りたくなり、そして広めたくなっている。

映画的な魔法は、その身体性と重なり合い、私を歓喜の渦に包む。ぐにゃぐにゃのふにゃふにゃの、生きることの希望も見せない身体は、だんだんと鍛え上げられ、俊敏に動くようになり、リングを駆け回っていく。この変化は、フィクションではなくて、既に事実なのだ。安藤サクラという人物によって、その変化は成し遂げられることになる。これが映画的な魔法なのだ。文字や音では表現できない、2時間という限られた時間だからこそ、この変化を鮮やかに映し出すことができる。

彼女は本当にすごい。演技のようには思えないし、演技だとしたら、演技とは何かを問うことになってしまうだろう。彼女はその映画世界の中で生きていた。映画世界の中で100円コンビニで働いて、ジムに通い、アパートでタバコを吸っていた。彼女がリアリティに溢れる=現実にいそうということが言いたいわけではなくて、彼女、斉藤一子という人物が、あまりにも生きていたということが言いたい。そこに居た、という言葉がふさわしいのだろうか。安藤サクラが演じていたのではなくて、斉藤一子のドキュメンタリーのように思えた。彼女の変化は演技=虚構ではなくて、本物だ。本物に出会えた。それは映画を超えてしまったとも言えるし、同時に、これが映画だとも言える。

彼女はだんだんと変貌していくが、それは彼女が「全く変わった」わけではない。リングの上のラストシーンはすごい。身を乗り出してみていた。自らの弱さは、リンクの上で暴れ出すことになる。今まで感情を抑え、いや、感情などないかのようにノソノソとしていた彼女、ジムの中では逆に冷静に心を閉ざしたかのように打ちまくる彼女、そんな対極の存在が、リングの上では混ざり合い、まさに「人間」となって、剥き出しのまま投げ出された。なんてことだろうか、私は気づいたら泣いていた。

映画の最後、彼女は泣き顔を彼にだけ見せる。そして二人は遠ざかっていく。「もうすぐこの映画は終わる こんな私のことは忘れてね」と、尾崎世界観の歌声が彼女を代弁する。この「映画である」という告白は、私の感情をさらに揺さぶった。いいや、これは映画ではないし、これは、映画なのだ。終わっても、まだ続く感じがするし、同時に、終われば二度と会えないを悲しく思えた。彼女はリングを降りても、剥き出しの人間のままだった。泣いて悔しがって、また生活して、そしてかろうじて進んでいこうとする。彼女はもう、ぐにゃぐにゃではなくて、真っ直ぐな線を獲得した。2時間の変化が、この後の生活の中で、どうまた変化していくのだろう。斎藤一子のその後を追いたい。だけど追えない、映画は終わった。
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