セックスに依存した女の悲惨な人生を描き、主人公が最後まで幸福になる兆しすら感じさせなかったのは良い。
残念だったのはVol.1の感想に書いた、
主人公のセクシャリティが歪んだ、
決定的かつ根本的な原因となる
出来事が不明
というのが、Vol.2でも解決されなかったという点。
セックス依存になった人間の、陰惨なエピソードを、色々な形で見せてくれたのはエンタメとして楽しめたし、それらが人の心の暗部に突き刺さるような、クオリティの高いものだったことは間違いない。
しかし、主人公が性的に異形のまま成人になってしまった理由が分からないために、それらの放埒な性描写の威力というか、メッセージ性が半減してると思う。
父親との関係に何か問題があるようなシーンは無かったし、両親のセックスライフの主人公への影響のようなものも語られていない。
唯一の手掛かりは、あるシーンで主人公が口にする「孤独」という言葉だけれど、倒錯したセックスでしか他者とつながれないような孤独を持つに至った、説得力ある描写が無かった。
そういえば性依存に陥った理由ということでいうと、マイケル・ファスベンダーの「シェイム」でも明確には描かれてなかった。そこをクドクドと描くと映画としてクールじゃなくなるんだから察しろってことなのかな?
性依存から脱するためのグループセッションで、女がさんざん口汚いことを罵り、ラストシーンでは自分を蔑んだ老人を射殺して逃走するっていう展開は、女の意志を感じた。
が、後々よく考えると、ちょっと安直というのか、子供ダマシだよなと思ったりもしている。というのは、自分の異形な性を、本当に自己肯定できている人間は、嫉妬のために元夫を射殺しようとしないだろう。ということは、主人公は完全にニンフォマニアに振り切れてなくて、健全な人生への未練タラタラな人のような気がした。そういう意味では、あまりカッコ良くはない、「イケてないのにイケてるつもりの女」だったりもするのだが、そのような「性に放埒だけど、健全な人生に未練のあるカッコ良くない女」を映画にしたという点において、この作品は新しい試みなのかもしれない。
これに対して「性に奔放でカッコいい女」は、男ウケがいいのでキャラクターとして有名になる。私がすぐ思いつくのは、エマニュエル夫人とか「痴人の愛」のナオミとかですね。しかしこの作品では、性に奔放でカッコいい女という、男のファンタジーにしないで、シリアスに悲惨な女の人生を見せようという監督の意欲を感じた。だからこそツッコミたいのだが、普通に健全な人生を送る人だと、「快楽だけを求めて愛のないセックスばかりしてちゃダメなんだ」ということを、個人差はあるだろうが、十代の後半から二十歳ぐらいのときにいろんなきっかけで悟ると思うのですよ。そのきっかけは、自分の目指すところの仕事だったり勉学だったり、それらを通じての他者との出会いだったりするわけだが、この作品では、主人公がそういう対象に出会えなかった理由、つまりは、主人公の哀しみや孤独の、最も深い部分にあることをちゃんと描写していないように思えて、そこが不満であった。
ところどころ出てくる押し葉が、主人公の最も深い孤独とどうつながるのかずっと楽しみにしてたのですが、明確なセリフやシーンが提示されて、つながることはなかった。
以上のモロモロで-1 .5ポイント。
とはいえ、何から何まで描いて、観る人を納得させることは映画監督の義務ではないと思うので、こういう映画があってももちろんよいと思います。
11/2 有楽町ヒューマントラストシネマ