GOODNIGHT

トイ・ストーリー4のGOODNIGHTのレビュー・感想・評価

トイ・ストーリー4(2019年製作の映画)
3.8
 トイストーリーは、そのタイトルからしておもちゃのものかだりだったはずだ。
 このトイストーリー4は、遂におもちゃという役割、枠、アイデンティティから離れていくというトイストーリーの行き着く先に到達してしまった作品だった。
 おもちゃに人格があるのなら、最終的には持主など必要でなくなるという結論なのか。
 この映画で、印象的なことは誰かの為と言うのは裏を返せば、誰かに自分の判断や行動に対する責任転嫁だとすることだ。
 これは、自分で判断する、考えることをやめている現在に対する問題提起だったと思う。正義や悪という分かりやすい価値基準が簡単に設定できたひと昔と違って今は、正しいも悪いも曖昧にして濁さないと批判の的になってしまう。だから自分で正しいや悪いの判断を自分の為にしなくなった。
 何か決断するときに、自分が信頼できる、信じている何か誰か役割を必要とする世の中になった。これが物語のウッディーなのだ。
 日本人だから、親だから、上司だから行動指針の源泉といして役割や立場が先行してきたこれまでから変わらねばならないと言うメッセージがあった。
 本来、自分のことは自分が決める。そしてその責任は自分で取る。
 そこへ立ち帰ろうと言うことなんだろうか。
 結局、自分の行動に対する責任は自分でしか取れない。そこに誰かを介入させて綺麗事を並べて納得するのは間違っているのだろうか。
 間違ってはいるだろうけど、社会は人間に立場や役割を与えているわけでそれがシステムとして機能して人間は生きていることは本当だろう。
 人間が、社会人がウッディやボゥのように役割、立場を捨てて好きに生きればアナーキーになる。そしてまたシステムがリストラクションされるだけだろう。
 アメリカでは確かにこのような考え方が広まった結果、分断が進むのでは?と勘繰ってしまう。
 作品としては素晴らしいけれど単純に面白かっただけで終わるべきじゃない。
 社会とひとりの人間としてどう向き合うのかこの作品をみたオトナはウッディの決断に対して、明確にイエスかノーか立場を決めるべきだ。私はノーだ。ウッディは落ち着いて判断すべきだった。おもちゃは持ち主あってのおもちゃだろう。おもちゃをやめたなら、ウッディは何になるのか?人間はヒトの間に生きるのだ。ならばそれこそフォーキーの如くゴミになるのでは?
ラストシーンは皮肉なのか?ボニーが必要とするからゴミからできたおもちゃは生きることができるなら、不必要になれば生きられないのか?ならウッディはゴミになる。
 わたしは、生きているから生きているのであり生きることには目的も理由もないと思う。
 ただ生きながらえようと思えばそれが理由になり目的も生まれるのだと思う。
 だから、最後の問いに対する答えはボニーのおもちゃだからではなく、生きているから。そこには理由はない。
 つまり、フォーキーのわからないと言う回答は言い得て妙なのだ。なんとすごい作品なのだろうか。


 22年6月26日加筆
あまりにも批判する人が多いように感じる為、追加で書きたい。
・アンディの想いを裏切る
 アンディは、何故、ボニーにウッディたちを託したのか。それは、好意的に考えればおもちゃは本来、遊んで貰うためにあるものだからおもちゃで遊び盛りのボニーに委ねるのがおもちゃの本望だと思ったということになる。なら悪意的に解釈したら、自分にはもう不要な品の処理に悩み、罪悪感を打ち消すために上記の理由で自分を正当化しただけだと考えられる。
 これは、トイストーリーと言う映画の話ではあるがこうゆう行動は日常にありふれたものではないだろうか。つまり委ねた後は最早、意識から消え去るのだ。その後どうなろうとどうでもいいとさえ言える。そこに自分の意志は介在しないし、信じていたなんて言えば免罪符になる。
・トイストーリー3
 トイストーリー3は賞賛されるが4が貶められる理由を考えたい。
 トイストーリー3では、幼稚園というフィールドで幼稚園がなくならない限り半永久的におもちゃ本来の役割を果たし続けることができる、しかし待遇が劣悪だったため、屋根裏を選ぼうとするが一人の少女に託されるという内容。
 ここに登場するクマとボーは、同じような境遇である。クマは忘れられてしまい、ボーは売りに出されて二人ともおもちゃとしての役割を発揮できないでいた。
 違いは、クマは幼稚園と言う場所でおもちゃとしての役割を半永久的に享受する。ボーは、おもちゃとしての役割ではなく自分の望むことを自由に探し求めると言うもの。
 つまり、3と4ではそれぞれの選択を見せたわけで対の関係である。
・幼稚園と家庭
 おもちゃとしての役割を果たすフィールドとして幼稚園は魅力的だっだが、ウッディ達が求めるものは特定のだれか大切にあそんでもらえることで不特定多数に雑に扱われることでは無かった。
 ここで、3の幼稚園でも擬似的に家庭での待遇に近い扱いを享受できる場所があり、劣悪な環境に犠牲者を配置する階級社会が作り上げられていると部分に注目できる。このように望み通りの生活を手に入れりためには常に搾取される存在が必要だと言う証左なのだ。
・ウッディ
 最後に繰り返しなるが、ウッディはボニーの為と言う言葉を発し続けるがこれはウッディの中に生まれた忠誠心を捧げるためのボニーの虚像であって本人の意志など関係ない部分に注目してほしい。
 フォーキー
 やや冷たい言い方になるがフォーキーなど無くなってもなんの問題はない。何故ならボニーが適当に作ったおもちゃにもならないものだから。作った二、三日は大事な存在かもしれないが何年にもわたり大事な存在になり得ない存在。無くして、大事なものは大事に扱わないとなくなってしまうということを覚える為に存在していると言っても良いぐらいだ。
 ウッディは、ボニーの為に役に立てさえすればなんでもいいと言った状態で、それは自分のために他ならない。3のクマと同じである。

トイストーリー4のテーマ
 未成熟な社会では、それまで必要に迫られてさまざまな役割を社会が要求してきた。例えば家族は、過去な自然環境から身を守る為に必要な集団だった。力仕事は、やはり体力的に優位な男性が担うべきだった。子育てや家庭的な仕事は感受性が豊かな女性が担ってきた。
 しかし機械化が進み、力仕事は減少し仕事に対する性差がなくなった。更に過酷な自然環境も都市では克服され一年を通して1人でも命の危機も無くなった。成熟した社会ではこれまでの人に科せられた様々な役割が不要となってしまった。これはトイストーリーでいうところの持ち主が大人になり遊ばれることがなくなったということに相当する。
 この社会が変化している中で、伝統的に必要とされてきた役割にも変化が必要だという主張があるのではないかと考察するのである。
 
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