青雨

プリデスティネーションの青雨のレビュー・感想・評価

プリデスティネーション(2014年製作の映画)
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この映画の面白さは、この映画の面白くなさとメビウスの輪のように繋がっているという意味において、僕にとっては、その両義性が興味深く感じられる作品だった。

その面白さは、作品としての完成度を示し、いっぽう面白くないという感覚は、SF(Science Fiction)とは何かという問いに対して、逆説的な答えを出してもいる。

そのため、完成度と面白さとは本質的には異なることや、Fiction(虚構)が何のために存在するのかということを、本作は図らずも指し示しているようにも思う。

すぐにネタバレします。



メビウスの輪や永久機関と呼んでみることもできる、いわゆる「鶏が先か卵が先か」という命題を映画にしたような作品。

けれど、1つの自我が永久に同じ輪廻を繰り返していくことの完結性は、作品にある種の完成度を与えはするものの、僕たちの生の実感に、何ひとつとして訴えかけることもないように思えてならない。

タイムトラベルという科学的虚構(Science Fiction)としては成立しているものの、本作はその虚構によって現実を揺さぶる力を持つに至っていない。これは、現実的にそうしたことが起きないからではなく、現実の背後に目に見えにくいかたちとして存在する何かと、本質的に結びついていないことによる。

映画の冒頭で爆弾処理に失敗し大やけどを負った男、彼と争った爆弾魔(フィズル・ボマー)、彼を救った人物、そして過去の時代に登場するバーテンダー、女性から男性へと性転換したジョン(ジェーン)、ジェーンだった頃に恋した男、その間に生まれた子供など、すべて同一人物だったという話の筋には、メビウスの輪としての完結性による面白さは確かにある。

しかし、そうした面白さは、自己完結性の1つの極点を見るような面白さに過ぎず、Fiction(虚構)が本来的に宿している喩(たとえ:暗喩や象徴)としてのダイナミズムはないように思う。

僕たちが広義の意味での物語に接する際(そして僕にとっての映画は、広義の意味での物語に他ならない)、意識的にであれ無意識的にであれ、最も深い場所で感じ取っているものは、煎じ詰めれば喩(たとえ)としての働きだろうと思う。

結果として、その完全な自己完結性は、僕たちの生の実感に照らしてみた場合、喩(たとえ)としての面白さをどこにも見出すことができない。そして、SF(Science Fiction)とは、科学的虚構を通して普段は意識していないような、潜在的な人や社会の実相をホログラフィックに浮上させることにこそ面白さがある。

つまり、この『プリデスティネーション』は、その自己完結性という完成度によって面白くもあるいっぽうで、同時にその完成度によって面白くないものになるという、ある意味では本作が内的にもつ構成を、映画として外的に宿しているようにも感じる。

けれど、そのことの面白さと言えば、とても面白い作品になっており、僕にとっては、そのように認識する力を深めてくれた作品のうちの1つでもある。面白く観たからといって、面白く感じたとは限らず、面白くなく観たからといって、面白くなく感じたわけでもない。
青雨

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