KEKEKE

666号室のKEKEKEのレビュー・感想・評価

666号室(1982年製作の映画)
3.0
- 私が生まれる前のどこかの時点で映画という言語が失われていて、既に死んでしまっている芸術なのだとしたら、私が観てきたものは一体なんだったのだろうかと悲しくなってしまう
- これは80年代前半に撮られた作品だけど、私がこれまで観た映画はそれ以降に作られたものが大半を占めていて、その中には本当に素晴らしいと心から思えるものが確かにあった
- だから少なくとも「私にとっての映画」は、様々な変遷を辿りながらも死んではいないと信じていて、これから先のことまだはわからないにしても少なくとも今日までは、テクノロジーや産業の進歩と共存してきたと思いたい

- 40年間という、長いようでありながら、メディアの歴史としてはとても短い時間の中で、この業界がどのような歩みを進めてきたのか、不勉強な私には知る由もないが、最後にヴィムヴェンダースが流したトルコ人監督の音声テープが、現代にも通用する価値観で的を得た語りをしていると感じた

- 彼は、映画には「芸術としての映画」と「産業としての映画」の二つの側面があり、そのバランスが崩れた結果、業界全体に亀裂が入ってしまったのだという
- 家で誰もが高画質の映像を見ることができる現代でメディアとして生き残るためには、産業としてお金を稼がなければならないし、そのために大衆のニーズに答え続ける必要がある
- そこで監督たちは「芸術としての映画」と「産業としての映画」の狭間で揺れ動くことになるが、この作品が撮られた頃、つまりテレビやビデオが大衆に普及し始めた頃は、その影響から後者に偏り、その結果映画という芸術の死が取り沙汰されることになったのだろう

- あくまで私の意見だが、現在進行形で評価されている監督には、このバランスが上手い人が多いと感じていて、そのことが映画はまだ死んでいないと私が信じることができる根拠になっている
- 私が見るような映画は、ある程度大きなバジェットが動いているような大作であることが多いのだが、その中でも好きだと感じる作品は、その端々から、1%でも芸術として在りたいという工夫と苦悩、情熱が感じられるものばかりだ
- ひとつの作品を構成する組成要素のうち、49%が商品だとしても、残り51%が芸術であろうとするなら、そこに新しい工夫が宿る
- 可処分時間の取り合いになる現代で作品の芸術性を高めることはもはや賭けであり、監督が大衆の感受性を信用するという、作り手と受け手のコミュニケーションでもある
- それが蔑ろにされている作品も勿論無数にあるが、その中には業界の未来だと思える作品も確かに存在している

- この作品が撮られたころからさらに、テクノロジーや社会/産業構造の変化は著しく、しかしまだ映画は死んでいない
- ストリーミングが生んだ新たな業界の動きや、SNSの発達によるバイラルヒットの可能性、観客のニーズはさらに細分化しグローバルに評価されることが求められるようになった
- 画面の前に着席させるまでの苦労は増大したが、それでも芸術としての映画を作り続けようという監督が消えていないことは確かである
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