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たかが世界の終わりの百合のレビュー・感想・評価

たかが世界の終わり(2016年製作の映画)
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たかが、世界の終わり

100分とは思えないほど骨太。息もつかせない。エッジの効いた映像の手触りと音楽、特に冒頭、料理を用意するシーンはそれだけで独立したPVのよう。観客を引き込むのがうまいな、と。
グザヴィエ・ドラン監督、調べてみたらこのような家族の物語が主題なようで…他の作品も見よう。
とにかく煮詰まった田舎の家族、過剰なおしゃれをして浮いた母と妹とそれに苛立つ兄、そしてエイリアンである都会からやって来た息子、同じくよそ者である兄嫁、の複雑な関係が描かれる。
兄と弟というふたりはとても面白い。‘たったひとつの身体を持つたったひとりのわたし’の持つ不条理に限りなく反抗するのがこのかたちではないだろうか。あり得たかもしれないぼくとしてのきみ。「田舎、工場勤務、異性愛者、粗暴」「都会、ホワイトカラー、同性愛者、繊細」とすべての対極にふたりは位置させられている。だからこそこのふたりは兄弟なのであり、強く引かれ合うのだ。都会仕込みのもったいぶった話し方やふるまいに一番苛立つのも彼らが強く結ばれているからであり、また弟を都会に追い返すのは兄でなくてはならない。なぜなら対極にあるからこそ、兄は弟の一番の理解者になることもできるからである。
母とふたりで話すシーンも印象的だ。「ええ、理解できないわ。だけど愛してる。私の愛は誰にも奪わせないわ」理解できないなら愛さないでくれ、と願う息子への甘美な死刑宣告。この三きょうだいが同じ棚でいがみ合っているとすると、母は違う。母というものはいつも真上の角度から真綿で絞め殺すように愛を与える者なのだ。
母と妹は、「理解できないけれど愛している」という態度を取る点において共通している。兄は「理解したくないし愛していない」。どちらも明らかに過接触であり、煮詰まったあの独特の会話劇を生む。しかし残った女性である兄嫁だけが、「理解できるかもしれない、愛せるかもしれない」という‘冷静’な立場に立っている。ここで女性を持ってくるところにドラン監督のジェンダー平等的立場を見ることができるかもしれない。
「理解する」ということ、それは「愛すること」とはイコールではないが、(すくなくとも本作中においては)「他人のなかに入ること」であるように思える。「理解できるからこそ」「愛したくない」という構図ももちろん起こり得るだろうし、その逆もまたしかり。多くの場合の他者関係においてわたしたちは「理解できたりできなかったり」「愛せたり愛せなかったり」を個人のそこかしこに認めて生きている。しかしこと‘家族’ということになると「全面的な理解」や「全面的な愛」を求められがちである。つまりここにおいてだけ「理解」と「愛」が等号で結ばれてしまう。だからこそのこの母と兄妹の煮詰まりようなのだ。息子はしかしながらこのイエスかノーかの世界で戦うことから逃げ出した。そして12年の逃亡ののちに、死を前にしておめおめと帰ってくるのだ。しかし彼はこの全面戦争的世界に入る権利がもう失われていることに気づく。そうしてなにも告げずに、おそらく12年前と同様無言で去るのだ。たぶん、永久に。
闘争の前では、世界の終わりさえ‘たかが’扱いされてしまう。監督はまっすぐに‘たかが’と言ったのか皮肉ってそれを言ったのか。すくなくともわたしはルイのこの逃げ切る姿勢を美しいと思った。一度戦わないという選択を取れば、それ以外の可能性は永遠に失われなければならないのだ。そのことの表現として、‘そこに居たかもしれないわたし’が占めるであろう位置には兄がいる。もはやわたしたちの歩みは止められず、引き戻されることもない。
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