失礼だな純愛だよ

シン・エヴァンゲリオン劇場版の失礼だな純愛だよのレビュー・感想・評価

4.0
テレビシリーズ及び序破Qでは潜在意識でしかなかった「大人と子ども」というテーマが、初めて意図的に表層化された作品だろう。

子どもは歳を重ねれば大人になるわけではなく、そもそもそこに境界はない。エヴァシリーズにおいては、自らを大人であると定義付けた者たちが、子どもであると定義付けられた者たちをコントロールしようとするエゴが描かれる。一方で、定義上子どもであるシンジはその恩恵を享受しようとし、アスカは逆に大人であろうとしたためにそれを跳ね除けたがっていた。
もちろん誰一人としてそれを自覚していない。

彼(彼女)らは「親と子」であることを自認してはじめて、その言動に一貫性をもつことになる。ミサトが最もわかりやすく描かれているが、各キャラクターが実際の親もしくは親と同等の存在を見出すことで物語が収束する。愛を注ぐべき対象、愛してくれる絶対的存在、それらが人を強くするというのは夢想ではないと思いたい。
(あくまで個人的見解だけれど、ケンケンとアスカ、マリとシンジの関係を性愛として読解するのは、先入観に囚われているのでは、と思う。)

ゲンドウの行動原理が最も共感できたが、定義された立ち位置ではなく「ゲンドウ」としてユイへの愛を貫いてきた彼すらも、親であることを自認したときには少しばかり後悔するのだなあと。親ってすごい。

庵野監督自身がなにか絶対的な愛を信じ受け止めたことの証でもあり、そのエネルギーが生んだ本当に素晴らしい創作物。出会えてよかったです。





マリの見解補足

・ゲンドウとユイの馴れ初めに関わっている
→シンジの出生の一因
・冬月の「イスカリオテのマリア」発言
→聖母であり裏切り者(神になろうとするゲンドウへの反逆?)

シンジには最後まで「男女」を匂わせる発言をするけれど、実年齢を考えてもユイの代わりにシンジを見守るあくまで「母」に近い存在なのでは。