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ノクターナル・アニマルズの百合のレビュー・感想・評価

ノクターナル・アニマルズ(2016年製作の映画)
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REVENGE

トムフォード監督7年ぶりの作品ということで、『シングルマン』に引き続いて鑑賞したが、かなり上達したという印象を受けた。前回は落ち着きのなかったカメラワークも洗練され、音楽も格段に良くなったと思う(これはちゃんと映画館で鑑賞したからかもしれないが)。美的センスは言わずもがなという感じで、相変わらず画面のつくりかたが美しい。また、ただ漫然と美しいだけでなく、きちんと美しさの強弱がついてとり、しかもそれが物語の転換点をマークできているのも素晴らしい。トムフォードの映画監督としての自覚が感じられる。
前作は主人公の現在と彼の記憶という二側面から紡がれていたが、今作は3つのレイヤーから成立している。主人公の現在、主人公の過去、主人公に送られてきた小説世界、という3つである。前作と変わった点はもう1つあって、主人公がゲイ男性からヘテロ女性へと変えられている。
この3つのレイヤーの組み合わせの巧さにはもう感服というほかなく、観客を置いていかないような親切設計になっている。これは前作から引き継がれたトムフォードの得難い美徳のひとつだろう。
主人公のパーソナリティを考えると、まず彼女はビジネスで成功し「すべてを手に入れた」女性である。どうやら学生時代から優秀であったらしく、しかしその‘優秀さ’を本人はコンプレックスに感じている。自身には芸術家に求められるような内的衝動が欠けていると彼女は思っているのだ。また彼女は保守的でいかにもブルジョワ階級といった自身の両親のことを忌々しく思っており、自分が母親に似てゆくことに恐怖を感じている。
対して20年ほど前に別れた物書きである主人公の元夫は才能がある分繊細で、どうやら経済的には上手くやれそうにないらしい。
主人公はそんな彼の繊細さに惹かれて、また母親への反発という感情が手伝って、ごく若い時分に彼と結婚する。2年ほどしか続かなかったという結婚生活は、主人公自身の口から「酷いやり方で」と語られる幕切れを迎える。主人公はやはり経済的な展望が見えない弱々しい男にしびれを切らし、現在の夫に「乗り換え」たのだ。
この対照的な2人の、小説を介した精神的なやりとりを中心にしてこの作品はすすんでゆく。
小説のなかの主人公は、まったく理不尽にして唐突な暴力によって妻と娘を奪われてしまう。まっすぐ続くハイウェイから押し出される様は、どうしたって人生とそれに襲いくるアクシデントを連想させる。諸々あって主人公は、妻と娘を殺した犯人に復讐を遂げるのだが、最後には自分も荒野の中でひとり息絶える。
元夫は無力にも妻子を奪われる小説の主人公に自身を重ね、犯人には現実世界における主人公の現夫を重ねたのだろうか?そうは思えない。現実では彼は‘奪われた’のではなく‘捨てられた’と言ったほうが正しい。
これは作家の、世界全体に対する復讐といえるのではないだろうか。つまり人間を‘奪っ’たり‘乗り換え’たりできるまったく正気の多くの人々。世界から‘捨てられた’作家はそんな人々のグロテスクさをこの小説で暴こうとしたのではないだろうか。
しかし小説のなかで主人公もまた死んでしまう。復讐には意味がないこともこの小説は自覚しているのだ(このことは「一度失ったものは二度と戻らない」という過去の元夫の言葉でも語られている)。だから彼は現実世界では主人公と会わないのだ。会っても復讐するだけになってしまうから。
また彼は非常にものをまっすぐ見る人物として描かれている。彼以外の登場人物はみな、それぞれ己のフィルターを持っている(主人公は両親を「共和党支持者」、犯人は「浮気したと女が言うなら別の女とヤッてやる」)。そんな中で寡黙な元夫は寡黙であるがゆえに彼のフィルターというものが立ち現れてこない。このような二項対立もこの作品からは感じとられる。
あちら側とこちら側のように世界をとらえてしまう。このような二項対立的な認識は、楽だがまったくナンセンスだ。小説でも現実でも男はこのような認識に陥り、目を覚まし、末に死んでしまう。このゆらぎを自覚しているからこそ彼は死ぬしかなかったのだ。しかし主人公はこの世界観にはまりきっていることに最後まで気付かず、無邪気にも元夫と会おうとする。
このような‘乾いた’性質をトムフォードがヘテロ女性に被せたというのも興味深い。(まあヘテロ女性とかゲイ男性と分けること自体が二項対立なのだが…)。
文学の無力さと尊さが描かれている作品ではないだろうか。
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