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小麦の買占めのozのネタバレレビュー・内容・結末

小麦の買占め(1909年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

D・W・グリフィス(1875-1948)は1908年に監督デビューを果たした後、多くの短編映画を作り続けました。初期のサイレント映画において支配的だった演劇の影響から脱し、カメラポジションの変化やクローズアップなどの映画文法の成立に重要な役割を果たした事で知られています。またギャグやアクションなど単調な題材を短時間(多くの映画監督は1週間に1本のペースで短編映画の作成を求められていた)で録りあげる事の多かった初期映画において、映像で複雑な物語をいかに語るかに注力し長編ストーリー映画への先鞭をつける役割も果たしました。
さて『小麦の買い占め』は何よりもそのストーリーの異質さで知られます。それは要約すれば以下のとおりです。
「農家の栽培した小麦は仲買人に買い叩かれ、投資家はさらに市場で小麦を買い占める事で値段を釣り上げて莫大な富を得る。パンの値段が高騰し、消費者と農家が苦しむ一方で投機熱は高まり、投資家の豪勢な生活には拍車がかかっていく。やがて世界の小麦市場を制した事を知った投資家は喜びのあまり誤って世界中の小麦を貯蔵する倉庫に転落し、小麦に埋もれて命を落とす。再び消費者の手にパンが戻るが農民の生活は向上していない」
というもの。既に豊富な先行研究がある本作ですが、ほぼ全ての論者が言及するのは、物語映画の話法の革新性、とりわけ並行モンタージュ技法についてです。これを簡略に述べるとグリフィスは並行モンタージュを駆使した「最後の救出(last minute rescue)」(代表的なものは『見えざる敵』(1912)で強盗の手にかからんとする姉妹のショットと、救出に向かう兄のショットを交互に映し、最後はぎりぎりのところで救出する手法。)を手法として成り立たせ、幾度も作品中で駆使してきました。しかし、本作での並行モンタージュは空間的に隔絶された農民、消費者、投資家を映しますがそれぞれのストーリーが交錯する瞬間がありません。彼らを繋ぐのは有機的な関係ではなくあくまで経済的な関係のみです。しかしこの経済的関係を視覚化させ、いかに映像に落とし込むかに演出の機微があり、狂騒めいて蠢く小麦市場の投機人たちと微動だにしない消費者という画面(このシーンは一見すると制作費を抑えるためのフリーズフレームに見えますがよく注意してみると画面右の子供がわずかに動いています。)はそれをよく表現しています。本作の原作はFrank Norrisの小説"A Deal in Wheat"ですが、先行研究によれば「投資家個人の原因によって社会が混乱する」と言うのは原作の意図とは反しており、原作では「制御できない市場経済が人々を不幸に陥れていく」ことがテーマとして注力されているとのことです。小麦を作ったのは他ならない農民ですが、その小麦が商品として流通するやいなや個人の力を超えた存在となり、消費者や投資家自身すら苦しめます。投資家は最後に死にますが、それ以前にも小麦市場のショットで興奮のあまり倒れこむ様子も見られます。また、消費者による暴力的な場面もあり、値段が吊り上げられていくパン屋に対し過剰に抗議した消費者が警官によって鎮圧されています。本作を「統御不能な市場経済」そのものの不条理をテーマとした作品として見直すことで「投資家=悪、消費者=善とした勧善懲悪の物語構造が不徹底なまま終結する作品」とする悪評への反証足り得ると同時に、資本主義社会がその馬脚を現した世界恐慌に先立つこと20年前にエンターテインメントの領域で、その予測不可能性を昇華していたグリフィスの映画作家としての力量を察することができます。また、このような映画を許容した当時の観客のリテラシーの高さに驚かされます。
本作も当然ながらコピーライトは消失しており、YouTube等で無料で観ることができます。
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