Takada

ある夏の記録のTakadaのレビュー・感想・評価

ある夏の記録(1961年製作の映画)
4.3
@草月ホール

「あなたは幸せですか?」
と、インタヴュアーが市井の人々に聞きます。
無視されたり、避けられたり、今は仕事中なので答えられないと濁されたりします。
ときに答えてくれる人がいて、「もちろん、幸せ」だったり、「もちろん、不幸せ」だったりします。だいたい幸せ、とか、どちらでもないこともあります。
そのうちに人々は、問わず語りをはじめます。彼/彼女らは自分の物語を語り、時に感情を露わにもします。

そして、インタヴュアーの女性(語られる側であった)が、自らの物語を語り始めます。
語られる側が語る物語が終りしばらくすると、映画も終わり、試写室で見ていた出演者と製作者が、今終わった映画について語ります。
最後は映画について語っていた皆について、作者が語り、本当に映画は終わります。

映っている人たちは、カメラが回り始めると皆自分という役を演じ、自分という役を演ずる人たちのアドリブ芝居は、現実と少しずれた現実を作り出します。
映画が終わった後の、映画に出ていた人たちの関係性は映画が始まる前とはまるで違い、その変化してしまった現実は、映画が終わっても続いていきます。

ドキュメンタリーとはなにか、フィクションとはなにか、を考えるサンプルケースはフラハティからペドロコスタ、アピチャポンまでずっとあり、映画について話す上でわりとポピュラーな題材ですが、この作品はドキュメンタリーかフィクションかに関わらず映画が(見ることも語ることも含め)現実に影響する、という事を強く感じる映画でした。

最近では「童貞。をプロデュース」が、作られて10年経って今炎上し、現実を変え続けています。
作品と監督についての恨みを語り、自らの物語を語りはじめた加賀賢三さんに、梅ちゃんに、松江監督や直井さんに、シネマ•ヴェリテ(映画=真実)とはこういうことなのかと教わったようで、心が洗われる思いです。
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