Jeffrey

現代好色伝/テロルの季節のJeffreyのレビュー・感想・評価

現代好色伝/テロルの季節(1969年製作の映画)
3.0
「現代好色伝/テロルの季節」

冒頭、聳え立つ団地の一角。部屋には男一人、女二人が暮らす。向こうには公安が張り込んでいる。元全学連活動家、恋人、ダイナマイト、空港、客人、盗聴、セックス。今、同居生活を謳歌する三人…本作は若松孝二が一九六九年に監督した当時の運動の中で、あまり省みられることのなかった日常生活の側の、脱力した主人公を徹底して戯画化することで描きあげて内ゲバの問題を浮上しつつあった政治的前衛主義を批判し、ポスト六十八年的な地平の実践にいち早く成功した作品で、その一方で、安保条約の延長交渉に向かうときの佐藤首相の方米阻止を計画しながら、大菩薩峠での弾圧によって頓挫した赤軍派の作戦と平行して、映画における可能性としての暴力表象、テロリズムとは何かを問い、過激な直接行動と言う形で提示した作品であるとの事であり、こちらもDVDを購入して初鑑賞したが凄いの一言だ。

やはり若松スタイルは健全で、冒頭の街頭や大学での激しい闘争や弾圧の写真や火炎瓶闘争を含む内ゲバ、右翼集団の登場の記事などが映し出され、いかにその時代が激動の時代状況だったかを映像で表し続け、主人公の男の物語が始まっていく。この方法論は彼の過去の作品にも多く使用されている。ここ連続して鑑賞したらなおさら若松のスタイルが一気に頭の中に入ってくる。このような過激な活動家を軸にする作家の映画を連続で見ると様々な点に気づかされる。例えばこの作品に限っては、登場人物たちの関係性を一切書描かずに展開していく。ただ昔は過激な活動家であったであろう主人公を冒頭で映し、その主人公がいかにして奇妙な同棲生活を行うかを淡々と描き、徹底して監視を続ける二人の公安警察の姿を捉える。寝て覚めてセックスをして、食事にありつきゴロゴロしてテレビでお笑いをもらい、また寝て起きてセックスをしての繰り返しは現在における男のヒモを代表する。


さて、物語は元全学連活動家の男が、二人の恋人と団地での奇妙な同棲生活をただただ謳歌することで、監視を続ける公安警察を欺く、ダイナマイトを体に巻きつけて空港へと向かっていく。本作は冒頭に不気味な女の声で歌われ、新聞記事が静止画の如く捉えられる。そしてモノクロ映像で団地を固定ショットする。そこに二人の男が歩いてくるファースト・ショットで始まる。その男二人は公安警察である。その前を田中と言う男が通り過ぎる。公安警察の一人の男が上田と書かれた表札の家に忍び込み、盗聴器を仕掛ける。田中はその部屋に戻っていく。公安警察である男たちは迎えに住む主婦の協力を得て、田中の監視活動を開始するのだ。そこで元活動家で大使館焼き討ち事件の黒幕だったが、後に行方がつかめなかったと言う田中の経緯が伝えられる。しかし、捜査に異常な好奇心を示す主婦に男たちは微妙な表情をする。

田中の元に一人の女が帰宅する。男たちはその会話に聞き耳を立て、もう一人の女が戻ってきて、田中と女二人と食事を始める。この空間には男ー人女二人と言う三人になる。公安警察は、その関係を考えて、三人でのセックスが始まり、男ー人で女二人の同居生活だということが判明する。呆れた男はトイレに行くが、今度は隣の部屋から聞こえる夫婦の喘ぎ声を廊下で耳にする。女二人に体を拭いてもらっている田中は気持ちよく満足そうである。男達も監視を止め、眠りつく。翌日、女に起こされた田中は三人で朝食をとる。男たちは田中に全くそれらしき気配がないことに苛立ちを見せ始める。女たちは二人揃って会社へと出かけていく(何に勤めてるかは謎である) 一人残った田中は、用意されているこたつに潜りながらダラダラする。

しかしいてもたってもいられず外に出て散歩をしたりする。すると突然走り出して部屋に戻ったり奇妙な行動をとる。公安たちは尾行を出したかと期待するが、テレビ番組を見るためだと知ってがっかりする。暮色の頃に女たちが帰宅する。再び三人での奇妙な生活が始まり、今度はセックスをし始める。そして一日ー日が過ぎ、公安たちは何の動きも見せない田中への監視に疑問を持ち始める。ある日、田中と女が帰りの遅いもう一人の女を心配する。そこにその女が強姦されそうになったと泣きながら戻ってくる。その話を聞いて興奮した田中は、嫌がる女に乗りかかるともう一人の女とも抱き合う。

明朝になり、女たちが出勤する。男たちは、毎日ぐうたら生活の田中を許せなくなっていた。いつものように夕方まで何もせずに過ごす田中のもとに、かつての活動家仲間の今井が訪ねてくる。彼は戦線への復讐を言うが、田中は戦闘の現場を批判し、手を引いたのだとしてまったく取り合わないのだ。裏切りに怒りをあらわにした今井は、田中を殴って部屋を後にする。監視を続ける公安たちは、また肩透かしをくらいショックを受ける。一人取り残され酒を飲んでいる田中の下に、買い物から女たちが戻ってくる。飲み過ぎて女二人は会社を欠勤する。田中は、ピンク映画を見たりしながら新宿の街を徘徊する。公安警察は、本部に電話で監視の中止を要請するが、却下される。女たちは食事を準備し、田中の帰りを待っている。

戻った田中は、二人に体を洗ってもらった後でビールを飲み夜の営みをする。田中は朝のトイレの中で、首相訪米の記事を目にする。食事をしながら赤ちゃんを欲しがる女たちに怒りだした田中は、二人が出勤した後もその記事を見ている。しかし、当日になっても何の行動起こさないと判断した男たちは、田中の監視を止めて団地を後にする。一九七〇年を正したカレンダーが現れて日本とアメリカの国旗が見える。そこに田中と女のセックスシーンが垣間見れる。田中はダイナマイトを体に巻きつけてコートを羽織、誰もいない部屋を見渡して、出かけていく。そして車を羽田空港まで走らせ、一人管制塔への向かう。閃光の爆発音が響き渡る…とがっつり説明するとこんな感じで、アドバンテージとオーバーラップが印象的な作品である。


いゃ〜、まさかの暴力無しの作品に辿り着くとは思いもしなかった。連続して若松孝二映画を見たせいか、暴力不在の本作は逆に暴力的な台詞回しが印象的だった。それは公安がとっ捕まえてボコれば大抵はゲロするんですが…とかの会話であるし、冒頭のスチルを使った無言の暴力的圧力と終盤の管制塔への〇〇の音への執着心…これらが唯一の暴力と言えるのかもしれない本作に限っては。それも間接的に言及される。これには参ったものだ。この男(若松孝二)はどんな時でも暴力と隣り合わせの映画を撮る作家だと感服した。それはATGの「天使の恍惚」へ更にグレードアップする直接的な画作りで支配するのだから降参だ(笑)。若松孝二は暴力を抱いて寝る男だ。それに公安がひたすら愉快なセックスの話を音として楽しまされる場面なんて滑稽だ。


男一人女二人で乱痴気騒ぎするショットはすごいインパクトがある。特に公安警察が二人が盗聴器で聴いているのを見るのも面白い。コタツの中に潜って女の足を触ったり、取り替え陰部を挿入したり、女同士がセックスしているところタバコを吸いながら眺めたりとんでもない男であるが主演の吉沢健がイケメンすぎるので全てが美しく見える。それにしても公安警察を小馬鹿にするような演出は若松孝二らしいなと思った。ヒモ男の日常を見せられている気分で、やることがないのって地獄だなと感じた。この作品団地と言う空間を密室にしているのだが、団地の映像を見るとATGの羽入進の「彼女と彼」と熊井啓の「地の群れ」のラスト主人公の男が全力疾走する団地のシーンを思い出す。その男に女が私も犯して…と言う場面とか強烈であるし、そびえ立つ団地の上下運動の撮影や虚無感たっぷりの演出がたまらない。

そして張り込んでいて何も正体を表さない男に苛立ちを見せる公安のセリフもいちいち面白く笑える。ラストの十分間は日の丸と星条旗が画面を埋め尽くして風になびく国旗を背景に、男女のセックス描写がうっすらと写し出される演出は憎たらしい…が、最後の空港での〇〇がやばかった。ところで、この情報の非対称性ばりの観客に"ごろにゃん"と呼ばれた男の素性がはっきりとさせて無いのがモヤモヤするもので、二人の公安のみが何らかの事情(途中上がり込んできた仲間を含め)をしているのである。それが終盤の管制塔での風景に去っていく男の姿で我々は思い知らされるのだ。これが密室空間による物語だった事に…。それにフェミニズムとまでは言えないが、女二人が甘えん坊のごろにゃんと性的な体験をする際のリード的な、はたまたはやりたいセックスのイニシアチブは女にあると見える。かと思えば男が女を利用して生活謳歌をしてるかの様にも見えるのだ。

だから昔仲間が来ても、戦列参加を断り、問題回避をしたのではないだろうか…ヒモとして生きるべく…。ヒモの脱力男に暴力は相応しくない…だから本作には直接的なバイオレンスがないではないなか…それともまだ他に理由があると言うのか…。市民社会への埋没する本作は静かな秀作と言えるだろう…。この作品は今現在中国で行われている監視社会を予言したかのような作品である。ひたすら公安警察が聞き耳を立て一人(いかに犯罪者であっても一般市民)を観察する。観察から監視へと変わり、日常における権力のあり方を若松は捉えたかったんだと思う。とことん権力を憎む監督だが、やはり圧倒的な人数の差では事実上叶うことができなかっただろう。羽田空港へと自爆攻撃に向かう直接行動を主人公が結局のところするのだが、時の首相である佐藤栄作が、日米安保条約延長交渉のために米国に向かうのを阻止するために、誘拐作戦を企て、実行するために武装訓練を行うのだが、そのキャンプを襲撃され、弾圧を受けてしまう。

他にも様々なそういった団体が阻止行動のために空港へ向かったそうだが、圧倒的な機動隊の物量の前では無力化されたそうだ。このような歴史的な事実を踏まえて本作を見るとさらに面白いと思う。結局、日米安保は自動延長迎えることになってしまう。これは共産主義者同盟赤軍派を含み当時の反対派には苦痛だっただろう。そういった意味で、本作は当時の運動が果たせなかった行動を映像と言う表現に抑えたのだと思われる。想像力に置いて実現させようとしたと言うのは映画を見たものだったら誰しもが理解することだろう。そしてこの映画の注目するべきシークエンスは、ほぼクライマックスの直前に現れる大日本帝国の国旗とアメリカの国旗を重ねるシーンだろう。そこにうっすらとぼやけて主人公たちのセックスシーンを重ねる。いかに日本が米国の植民地であることを激しく突きつけているかがわかる。この点は非常に賛成できる。この場面がこの作品においての若松スタイルの特徴であるモノクロからカラーフィルムへと移行する唯一の場面である。

淡々と進む物語だが、自爆攻撃と言う過激な行動を描くクライマックスは大いに楽しめる。往復運動の中にある可能性を見出した秀作だと感じれる。管制塔にカメラがズームインし、閃光と爆音がダブルで我々の耳に入り込む瞬間、私たちは果たして何を思うのだろうか、あまりにも色鮮やかなフラグのカラーを眼に焼きつけた途端、我々は怒りを表すだろう。米国と言うアングロサクソンによる植民地が今もなおなされていることを…。完。
Jeffrey

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