百合

エル ELLEの百合のレビュー・感想・評価

エル ELLE(2016年製作の映画)
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「彼女」

死 に た い 。これほど自分の性が嫌になる作品はなかなかありません。なぜなのか。どうしてわたしたちは性というものを通してしか関われないのでしょうか。どうして“男”か“女”にしかなれないのか。
痛ましいレイプシーンから始まります。ゲーム会社の美しき社長ミシェルはフランスの立派な一軒家で一人暮らしをしている。暮らし向きは良いようで、息子と母の金銭的な面倒を見ていることも明かされる。離婚した元夫とも友達のような関係であり、恋人らしきものもいる。会社では辣腕を振るっており、パートナーである女性社員とは仲睦まじいが、他の男性社員からは嫌われている。これらの背景が丁寧に描かれており、場面場面を繋いで説明をする腕は確かなもの。そして、次第に彼女の過去、父との因縁ともいうべきものが明かされてゆく。
ミシェルの会社が大変な鍵になっていると考えます。彼女は「文学畑の出身」となじられますが、自身で立ち上げた会社はどうもゲーム、特にエロゲーの会社らしい。ちょっと笑えるほどちゃんと作り込まれたゲームの画面がいちいち全面に展開されるのですが、そこに映るのは怪物に犯される女戦士といったストーリー。しかも試作段階でミシェルは「もっと強いオーガズムを!」と社員たちにハッパをかけている。
いうまでもないことですがエロゲーといった(ヘテロセクシャル向けの)アダルト産業は、女性を性的客体として扱うことから始まる訳です。女の人にも選ぶ権利が、とか、ときどきは断られるもの、とか言っていては始まらない。その描写の仕方が強引であれ合意の上という演出であれ、女性は自らの“受け入れる性を受け入れているもの”として描かれます。そのようなものの作り手であるミシェルは、しかし自らの女性性の取り扱いがどうにも屈折している。
そもそも自分ひとりで母の面倒も息子の面倒も見、元夫には仕事の口をせびられ、自由に車を駆り、デカイ家にひとりきりで住んでいるという時点で彼女は非常に(旧習的な)男性性を生きています。そんな彼女が唯一女性性に勝てない極点の表出がレイプなわけです。どれほどお金を稼ぐ能力があっても、自由に恋愛を楽しんでいても、生物的に男性の力には勝てない。この大いなる矛盾・挫折の超克こそがこの映画の主題なわけです。
ミシェルはいかなるものの庇護も求めません。警察に通報することもせず、淡々と後片付けをして、家の鍵を変え、催涙スプレーを購入します。(警察とは関わり合いになりたくないということの動機づけもしっかりと描かれています。約40年前に父親が起こした殺人事件。彼女は40年前から“被害者”という意識を持っていたのです。)自分の力で犯人を捜すミシェルですが、そのうちに好意を持っていた隣人が犯人だと判明します。しかしここでも彼女は通報しない。それどころか彼の所へ夕食を食べに行き、予定調和的にまたレイプされます。
このシーンでは彼女の屈折した同意といっても良いようなものが描かれます。音の漏れない地下室に自分から入って行った時、彼女はたしかに勝てることのない男性性に膝を折ったわけです。
物語はここから一気に収束へ向かいます。冒頭から抱えていたゲーム作品が完成し、ミシェルはレイプ犯と元夫、息子をその完成パーティに招待します。社長である彼女はここではいかにも男性的。情けない息子に仕事を割り振ってやり、情けない元夫の新しい仕事の口まで世話してやります。レイプ犯とダンスをしながら(なぜかイギー・ポップ)唐突に彼女は自らの不倫を親友に明かし、息子に鍵を渡して犯人と帰宅します。車内で彼女はレイプ犯に告発の旨を告げる。そうして無防備に自宅へ帰ったところ、(ここでも予定調和的に)彼女は襲われます。しかし今回は前までと同じようにはいかない。鍵を開けて入ってきた息子が惨状を目の当たりにし、犯人を殺してしまいます。ようやく登場した警察によって話を聞かれた彼女は、しかしそれまでの犯人の罪を明かすことなく終わります。
息子の手によって、というのが示唆的な気がします。やはり勝てることのない男性というものに立ち向かうためには息子の手を借りるしかなかった。いや、しかし形式的にはそうですが、息子が現れるような筋書きを書いたのは彼女なのです。そうすると彼女は知略をもって、自らの女性性を克服したといえるのかもしれません。
中盤、レイプされたというのに不倫相手の身勝手な性交渉の求めを断ることもせず、あまつさえ他の男性(犯人とは知らない段階の隣人)までもを求めるようなミシェルの姿はわたしには気持ちが悪く、そんなに性的に求められることが大切かと思ったのですが、彼女は自分さえも性的客体として見ているのです。つまり表層では非常に“強い男性性”を生きるために、自分の“女性性”さえも“男性的に”消費している。奔放な彼女の性生活はこれらの表れなのではないでしょうか。
しかし作品の終盤、ミシェルは不倫を告白し、好意を持っていた隣人との安寧を捨て、レイプ犯を自らの手で罰します。彼女は自分を自分で消費することを辞めたのです。その証拠に、ミシェルが自身の不倫の被害者であるところの親友の女性と並んで立ち、一緒に暮らす相談をしながら歩き去る姿でこの作品の幕は閉じられます。“名誉男性”ミシェルの秘書であり終始“女性性を引き受けられている女性”の表象のような親友の彼女と並んで生きてゆくこと。ミシェルは自らの女性性の男性的な消費をやめることができたからこそ、女友達の隣に立つことが出来たわけです。
つまりこれは“ELLE(彼女)”がどうしようもない自分の女性性をそれとして受け入れ(させられ)るまでの物語なのです。
死にたい!!!!!!!!
劇場では結構笑いが起きていましたが、この作品でゲラゲラ笑える人は女性性を男性的に消費することができる男性か名誉男性だけなのだろうなと思います。実際笑い声もオジサンが多かったような…彼らは幸せなことです。非常に。まぁ彼らのような人間がいないと人類は衰退してゆくわけですが。
性というものがほとほと嫌になります。
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