TakamaruSuzuki

ブレードランナー 2049のTakamaruSuzukiのレビュー・感想・評価

ブレードランナー 2049(2017年製作の映画)
4.5
降るはずのない雪が降りしきる世紀末的な退廃都市LAに前作の意匠を継承しながら、その上に新たな地平を築いた新作。

この映画を理解する上で助けになりそうなのが、ハイデガー著「存在と時間」。存在論の大家であるハイデガーは、経験論的かつ空間的な「存在者」と超越的かつ時間的な「存在」を区別した上で、「存在者としての人間が存在を思考する時には、時間性(始点と終点、つまり生と死)を構想しなければならない」と主張する。

映画に話を戻すと、ブレードランナーは旧作・本作共に創造主と被造物の二項対立から成っている。つまり人間とレプリカントが共存、あるいは対立しながら生きている。

肉体と意志を持ったレプリカントは、人間同様に痛みを感じたり、死を怖れたりする。
なまじ意志が付与されている為に、いち存在者以上にひとりの存在として命を生きようともがき苦しむのだが、時間性の構想をしようにも、成人の状態で造られるレプリカントに当然子ども時代はなく、誰かの記憶をプログラミングされて造られる。当然、親もいない。
つまり、自己という存在を思考する---時間性を構想する際、終点=死ぬことを構想することは出来ても、始点=生まれたことを構想することは叶わない。あるいは、構想したとて意味のある解を導き出せない。

実際、この事実が今作のKにおける存在認識に決定的に影響を与えていたと思う。現に、「生まれたものにしかソウル(魂)はない。造られたものにはソウルはない」と吐き捨て、運命のうねりの中に身を投じていった。
そしてそれは決してKだけではない。革命軍のリーダーが言っていた通り、レプリカント共通の意識として、自分が造られた存在者ではなく、望まれ産み落とされた存在だと、「皆そう思いたがる」のだ。

さらに、人工知能のジョーイは実存しないにも関わらずテクノロジーによって「存在者」たるという、更に輪をかけて矛盾を孕んだ存在として登場する。実体を持たない彼女はしきりに肉体を欲するが、それは叶わないことだと自覚している。時折見せる寂し気な眼が、前作のルトガー・ハウアーを想起させるが、実体を持たない分諦めの色合いは更に濃い。

以上を踏まえて無理矢理総括すると、シンギュラリティが現実味を帯び始めた今の世の中でとりわけ示唆的なのは、20世紀初頭に打ち立てられた存在論が未だ人間存在を考える上で重要であると同時に、テクノロジーの進化によって、空間性・時間性という前提が融解しつつあるということ。ジョーイの存在は、近く起こり得る未来に対する1つのテーゼであり、21世紀的な存在論の萌芽なのかもしれない。

と色々と思考してはみたけど、単純な感想はやはり前作同様で、人間のエゴの醜悪さに比べて、レプリカントの生への渇望が、あの目が、ある意味で人間以上に人間らしくて、どこか切ない気持ちになりました。
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