SatoshiFujiwara

エグジールのSatoshiFujiwaraのレビュー・感想・評価

エグジール(2016年製作の映画)
3.7
第17回東京フィルメックス

非常にパーソナルかつ詩的、さらに言えばリュミエール的と言うよりはメリエス的に夢幻的なやり方で(書き割り的な誇張化された月が頻出するのは明らかにメリエスではないか)リティ・パン(前はリティ・パニュとの表記が一般的だったけど、監督自身は「パンと発音してくれ」と言っているみたい)が一貫してこだわっているポル・ポト政権時代における大虐殺(両親は殺され、リティ・パン自身も国外へ逃れた。つまりはまさに自身の問題)を扱っている。それ自体が相当にユニークと思う。

当時のカンボジアのフィルム映像もふんだんに引用されているとは言え、そこには説明的なナレーションは全くない。その代わりに声(フランス語)は毛沢東語録、ボードレール、フランシス・ポンジュ、サン=ジュストやロベスピエールらの言葉を次々に読み上げる。ここでの要点は、革命への賛美と、それが内包する危うさに違いない。ポル・ポトがやろうとしたことも「革命」である。

登場人物は、狭い部屋で寝起きするリティ・パンの分身と思しき男のみ。この男が物を食するシーンがやたらと頻発し、かつその口元をクローズアップで写す。恐らくはリティ・パン自身が苦渋を舐めさせられたカンボジア時代の貧困状態と食べ物とのイメージが明らかに投影されているのだろう(沢山の皿に盛られた食事が余りに時間が経過したためか完全に固まって砂を被り風化しかかっている状態を捉えたショットは実に印象的だ)。他にもとにかくいろんな事物の接写が頻出するが、これは子供時代の、とにかく直に触って掴んで間近に見たくなる、という観点から理解されるもの(と解釈した)。

で、観ながらなんとなくゴダールの『新ドイツ零年』を連想したんだがー他にも赤い本(むろん毛沢東語録だ)やらサン=ジュストのテクストなどは『中国女』や『ウィークエンド』への目配せと感じられるー、それは歴史を語ることを非常にミニマムかつパーソナルな感覚と体験の次元に落とし込んでいること、それゆえに逆にイメージが喚起されて普遍に接続されている点において。美しい映画だと思う。クメール・ルージュとポル・ポトを題材にした映画が美しい、というこの倒錯(上映後、リティ・パン監督が登壇してのトーク。アドルノの「アウシュヴィッツ以降に詩を書くことは野蛮である」という言葉を持ち出した後にこれを否定して「アウシュヴィッツ以降だからこそ詩が必要なのです」と)。
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