百合

奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガールの百合のレビュー・感想・評価

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「会いたい!…ていうかヤリたい!」

一言でいえば駄作ですが。大根さんなのでまぁなぁという。そもそも彼は映画という表現方法をまったく尊重していないのか?かったるい説明シーン、過剰なボイスオーバー。ドキュメンタリーじゃないんだから…本当に技術的には拙すぎる作品です。わかりやすくていいのか?このくらいの方が?描写がまったくもって民主的でありませんよね。まぁそれ込みで大根さんなのですが…売れなきゃいけないしな…なんといってもな…
表現技法的にはこのようにクソミソですが。物語としてはひとをイメージで消費することの愚かしさの作品なわけです。3人の男全員に「俺の理想の女だ」と言われるところの水原希子は、全員に愛されるわけですが、全員を狂わせてしまう。水原希子は現代のファム・ファタールなわけです。
映画のジャンル研究で言われるところのロマンス映画にはファムファタールが出てきます。が、現代の研究者にはしばしば「ファムファタールはホモソーシャルによる構築物である」と指摘されます。戦争を経てそれまで男性が独占していた場所に入ってきて、男性に依存せずとも生きていけるということが発見された女性。彼女らは“よくわからないもの“(=ファムファタール)として男性からまなざされたわけです。なのでそれくらいの時期のロマンス映画にファムファタールが出現する。
さて、もはや男性も女性もその性別ゆえにどこかの位置を独占することができるという社会が(理念的には)崩れさって久しい現代において、いまさらファムファタールを描く大根さんのジェンダー意識というものは大幅に時代遅れと言わざるを得ません。水原希子は女性性を生かして「ネコのような」(=つかめない)「全部狂わせるガール」であり続けるわけですが、別に「ネコのような」ことの理由に別に女性であることを持ってくるのは間違っているだろうと。女性だから「全部狂わせる」わけではない。「全部狂わせる」人がたまたま女性だっただけの話なのです。
ファムファタールの構築の歴史から考えますと、まず男性が思っていた「女はこういうもの」というステロタイプがあって、戦争を経て、それに徹しなくても意外に女性は生きていけるっぽいことに気づいた、しかしステロタイプの跡地で戸惑った男性は女性一人ひとりを見ることをせず、「ファムファタール」というある意味新しいステロタイプで彼女たちを理解し直したわけです。本作品の3人の男性たちはこのような歴史を忠実になぞっている。水原希子と出会い、「俺の理想の女だ」というステロタイプを貼り付け、しかし作品終盤でそれが剥がれてしまった後には、水原希子の虚空を見つめる勇気もなく「狂わされた」と言って泣く。
いや、泣く権利ねぇだろ!!ファムファタールをつくりあげたのが男性ホモソーシャルだったように、「全部狂わせるガール」をつくりあげたのもボーイ達だったわけですよ。お前、いまさら手に負えなくなったからって被害者ヅラして泣くって、ガキか??自分のやられたことはハッキリ意識できるのにやってしまったことはわかんねぇの?どういう都合のいい自意識してんの?いくつ?義務教育終わってる??と言いたくなるところです。
しかしまあこれだけ内容にキレてしまった時点で大根さんの勝ちなわけです。意図的なまでにダサい編集と基本ミディアムショットとクローズアップで構成された画面はほとんど強制的に観客を共感に巻き込みます。あとはキコちゃんの女の演技が女すぎてオエってなった。それくらい上手い。妻夫木くんも上手でしたね。新井さんも過剰な演技が合ってる。でも松尾スズキ今回はイマイチだったなぁ。なぜでしょう。『イン・ザ・プール』は好きだったのですが。
スーパーでケンカするシーンとかは異様にリアルで笑いました。ああいうなんかよくわからないこじれ方をしていくよねカップルのケンカって…あとキコちゃんが演じる女の「お気持ち」をぶつけて怒ってくる感じも非常に切実。原作者が監督か、とにかく人を観察する才能はあるんでしょうね。
人間をカテゴライズする文化圏の人々にはいいんじゃないでしょうか。
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