てんあお

ぼくらの亡命のてんあおのレビュー・感想・評価

ぼくらの亡命(2017年製作の映画)
4.1
これはなかなかに手強い。

こういう例えは本意ではないけれど、『奇跡の海』や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の頃のラース・フォン・トリアー、あるいは ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』くらいに、観る者の感情の、取り付く島もない。そんな手応えのない思いにかられる。

観客が匙を投げるのが先か、理解が追い付くのが先か。

先ずは、街の喧騒と環境音に、たびたびボリューム負けしてしまう演者の台詞。(監督曰く)現実味が薄れるから 台詞を目立たせるような調整はしない とのこと。一方で、聞き取りづらい声や会話は、却って 登場人物たちの「相互不理解」を際立たせる。怪我の功名なのか、狙い通りなのか。

そして、感情移入という言葉とは ほど遠いところにいる、主人公のふたり。昇と樹冬。

日本語には「捨て鉢になる」という表現があるが、観客が追いかけている 昇と樹冬 のいずれにも、本気で「鉢を捨てる」までの覚悟がない。

他人を殺めるにしても、自らの命を絶つにしても、それなりの覚悟が要る。想像力が要る。積極性が要る。反して、なんとか生きていくにも、下げるべき相手に頭を下げる必要があるのに、それすらも進んでは出来ない、したくない。腑抜けたふたり。その意固地な姿は、いつかの話題にみかけた、生活保護も受けられず性風俗に手を染めた、と報じられた 貧困に苦しむ女性の姿、にも繋がっていく。

ろくな収入源がないのに、スマホも酒も手放せない。浮浪する彼らの電源はどこにあるのか。などの些末な疑問も、浮かんでは消えていく。甘えや未熟さを誇張するかのような 現実のデフォルメも、たえず感情を煽り続ける。けれども、彼らを覗き見るようにあとを追うカメラに、最後まで付き合った者に見えてくる景色が、確かにあった。

見慣れたはずの新宿の街並みも、実際にあるはずの荒川近くの森や 北関東の海岸も、どこか日本のようには見えない。けれど、街場のデモ行進にも、部屋の片隅の殺人未遂にも、手応えもなく放置される空虚さに、この日本の今の雰囲気があるようにおもう。

浮浪する者にだって、人を好きになるくらいの感情があってもいい。たとえ頬を叩かれ罵倒され否定をされても、その感情さえ棄てなければ、行動する意欲に変えていける。

けれども、彼らは『ポンヌフの恋人』の アレックスとミシェル のようには成れない。ポンヌフ橋で再会するかのような、甘い後日談も この物語にはない。スマホや酒のように、依存するだけの関係で終わるなら、それを恋愛と呼べるだろうか。映画としてのテクニックや、俳優たちの熱演を語る前に、最後まで残った この問いを しばらく噛み締めていたい。

最後に。ときに不気味に、ときに生気なく、ちゃんと腑抜けて見える、昇と樹冬を演じきった、須森隆文と櫻井亜衣の両氏に拍手を送りたい。たまたま観ていた、大木萠監督の『花火思想』でも異彩を放っていたけれど、とくに須森氏には、いつかの水澤紳吾氏のように「アウトローな」役どころ以外で認められる日が来ることを願うばかり。
てんあお

てんあお