あずき最中

三度目の殺人のあずき最中のレビュー・感想・評価

三度目の殺人(2017年製作の映画)
3.0
まず、「裁判戦略」が色濃く出た作品はあまり観たことがないので、司法関係者の働きぶりについていろいろと驚きがあった。

法廷という場は、真実を追及する場とは限らず、証拠や証言をもとに事実を確定させていく場だと感じられた。
尋問も、本音や真実を引き出すというよりは、あらかじめ作られた仮説をもとに「これが事実ですよね?」と言質をとっていく場に徹していた。

だからこそ、事前に集めた情報や証拠品に偽りがあってはならないのだけど、三隅(役所広司)の証言は二転三転。
重盛(福山雅治)とともに、終始頭をかかえてしまった。

※一方で、重盛がプライベートでは娘の涙に翻弄されているのがまた深い。
司法の場に限らず、基本的に人は自分の思いたいようにしか事実を認定できないんだろうなと思わされる一場面。

●三隅のねらいとは?
「まるでただの器のようだ」と称される三隅。彼の本心はいくら考えても謎だった。何を考えても「私がそう思いたいだけなんだろうな」と思ってしまう。
なので、下記に書くのはあくまでも私の感想。

作中で気になるセリフがいくつかあった。
・「でも、重盛さんたちはそうやって解決してるじゃないですか」
「死刑のことを言ってるのかな」
・「生まれてこない方が良かった人間が世の中にはいるんです」&「命は選別されているんです」
・「人を殺さない人間と殺す人間の間には深い溝がある」
などなど。

このあたりの台詞などから考えてみると、三隅は
・自分は(周りを不幸にするので)生まれるべきでなかった
・世の中には目に見えない理不尽な選別(差別や格差)がある
という考えを持っているように感じる。

作中でのやりとりにのっとると、「命の選別」が誰かの意思で行われたとき、「選別」は「殺人」あるいは「裁き」という行為に変化すると言えそう。

三隅は理不尽な「選別」への怒りは持ち合わせていたけれど、殺人や罪を被ることへの抵抗は低い人間のようだった。
三隅はどうせ死ぬなら、誰かの罪を償って死に、なおかつ「理不尽な選別」の存在を誰かに知らしめてやりたいと思っていたのではないだろうか。
咲江(広瀬すず)への同情もないわけではなさそうだけど、クライマックスで重盛の仮説をあしらっているあたり、「悪しき人間を殺す」ことが目的であって、じつは彼の中では咲江自体への思い入れはそこまでないのかもしれない......。

●三隅と重盛のリンク
作中、何度か顔の血をぬぐう描写がでるけど、判決後に重盛が法廷を出て同じしぐさをしたときにぞわっとした人は多いはず......。
死刑=殺人といってしまうのはなんだかチープだけど、「三隅が自身の発言で自らを殺すことに成功した」=三隅にとっての「三度目の殺人」が成功した瞬間と言えるわけで、その事実がずしりとのしかかってくる。

また、クライマックスの対面シーンでガラス越しに三隅と重盛の姿が重なっては離れるシーン。
すごく練られた技法で、うわーっとなってしまった。重なりかけてまた離れていくのが、とにかく哀しい......。


観返したい気持ちと何度観ても真相は分からんのだろうなという気持ちがあるけれど、観客自身に考えさせる余白が残された面白い映画だと思う。
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