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セザンヌと過ごした時間のkiyonagaのレビュー・感想・評価

セザンヌと過ごした時間(2016年製作の映画)
4.7
才能が認められるかどうかは重要ではない、ある対象をある視点から表現する、そのために肉体と精神を捧げ、ついには果たせず絵に魂を奪われる、それこそが画家のあるべき姿だと、緩慢とした画壇への批判と、親友の生き様への憧憬から生まれたであろう『制作』。

ゾラもおそらくセザンヌと同様、世間に認められることを芸術の目的だとは捉えていない。ただゾラは、生きてゆく上での芸術家の限界を理解しており、だからこそ社会に歩み寄り、代弁者としてあるべき芸術家の姿を描かなければと考えていた。ゾラは、セザンヌのような芸術家が社会に認められ得る唯一の手段として筆を取ったのだ。しかし同時に、そこには、ありのままを描き出すがゆえ、実在する親友への冒涜的態度を孕むという自然主義のジレンマがあった。売文業としてのゾラのその使命をセザンヌが理解することはなく、二人の衝突は必然であった。

パリでの下積み時代、世間に拒絶されながらも、それぞれの道を共に歩んだゾラとセザンヌ。それを最も近くで見ており、唯一二人の関係に理解ある母が、「あなたも息が詰まった?」、そうセザンヌに声をかけた場面、迫りくる母の死と、ゾラの掲げる友情の脆弱さ、その終幕を重ねる描き方が胸を苦しめる。

ラストシーン、ドレフュス事件で改めて名声を得たゾラの帰郷に、嬉々として駆けつけたセザンヌ。そして、その隣に座る息子たちの姿を見て喜ばしい表情を浮かべ、最後まで友情を信じたのはセザンヌであることを教えてくれる。

多くの場面が『制作』の映像化であり、プロヴァンスでの青年時代、落選展などパリでの印象派揺籃期、才能と社会の狭間で苦しむセザンヌに重なるクロード、今まで想像の範囲で収まっていた世界が一気に躍動する、それだけで想いが込み上げる。

印象派が凱旋するパリ、その息苦しさから生み出されたと言ってもおかしくないセザンヌの作品たちを、今すぐにでも見直したい気持ちになる。やたらと技法に煩い好事家好みの画家だと無視し続けていた過去の自分と決別できる映画であった。
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