山のトンネル

さよならの朝に約束の花をかざろうの山のトンネルのレビュー・感想・評価

3.5
僕がこの映画から受け取ったメッセージ

「本気で愛すれば、本気の愛が残るということ」

愛には形はない。だから見えないし、触れない。
人生には出逢いと別れがある。どんな別れが待ち受けるかは運命のようでもあるし、現在からは全く想像もできないことだろう。人間はか弱く、突然死んでしまうこともある。だから望んだ形で優しいさよならの言葉がかけられる別れになるとは限らない。別れ方によっては出逢わなければよかったと思うこともあるかもしれない。でもこの映画を通してどんな出逢い方でも、その過程における想い。これだけは本物だということ。2人の間で育んだ想いだけはお互いの記憶に刻まれるということ。主人公とエリアルの出逢いも互いに愛を渡し合ったものだったのだろう。

しかし、本作は愛だけですべてハッピーエンドになるわけではないのが見どころともいえる。そういう意味ではタイタニック的なんだよな。

ハッピーエンドのようであり、バッドエンドのようでもある。まるで現実みたいだ。この物語を素直に綺麗な物語として見れたら涙も出たのだろう。でも、全体を均してみたらそんなふうには思えない。

映像ならではの描写の切り替えの速さ。
説明せずともニュアンスで流せる展開。
なぜ〇〇年後とかキャプションを入れなかったのかな。時間経過の話なのに。これは本作の特徴でもあるが、説明的なのを避けたかったと思われる。最近のアニメにありがちな、キャラクターの心情を全て台詞にするなどはしない。だからわかりにくくもあるし、視聴者に心情を委ねているとも言える。ある意味、挑戦的。

「ひとりぼっちが、ひとりぼっちと出会う」
このセリフをキャラクターに言わせてはあかん。
なんかな。ひとりぼっちだったということを言葉ではなく、映像で語ってほしかったな。

脚本を書く側がどうしても「ひとりぼっち」であることを強調するために言わせたセリフのように聞こえてしまう。

死は別れなのか。
死んでいなくても会えなければ別れなのでは。

◉教訓
〇〇な人だったら泣いてた。
××な人に向いてる。

というレコメンドの仕方や、感想は当事者からすると頓珍漢なこともある。むしろ、〇〇だから泣けない。××な人の救いには物足りない解像度であった、となりかねないことに注意されたし。

当事者だからこそわかる部分を細部まで短時間で描こうとするのは難しく、ゆえに当事者にしかわからないことを外野が推測するのも野暮ということだ。勉強になった。

ただ、作品制作においては〇〇な人に向いてそう、母親になったら見てみたいという感想を抱かせるのは使える手法。

◉歪な愛
設定が特殊なため、素直な母子愛とは言えないのでは。
この点について、まずイオルフの民(長命)であるためマキアの見た目が変わらない。また、イオルフの民はかなり美人である。マキアも例外に漏れず美人だ。中盤でリタに嫉妬される。
その一方で、エリアルは成長する。見た目も心も。駆け落ちと周囲に間違われるほど年齢差が見られない10代中頃。素直に母親と呼べなくなる。もともとはお母さんとして好きだった人。けどいつからか守りたいと思うようになった人。それは果たして息子としてだけなのだろうか。この部分に男性、女性の恋愛としての愛情がエリアル側には見えたように思う。マキアはエリアルのことを子どもとしてしかみていなかったようだけれど…
だから、エリアルがマキアのそばを離れたのは、自分では彼女を守れない≒失恋だったのかなと思うってしまうのだ。
一度距離を取り、軍に所属し、リタという最愛の人を見つける。それもあってかエリアルはマキアのことをあらためて母として。たった1人の育ての親として感謝を伝える。
マキアに美人設定は必要だったのかな。

◉被害者多すぎなんよな、この映画
クリム…最愛の人を追いかけたのに最後で振られる。

男の扱い方が、男の人が監督したらこうはならないだろうという結果。湊かなえ的なんよな。
カイルは元カレ枠のような感じ。レイリアの手を引くのはカイルでよかったやん。成長する女。停滞する男。

女の嫉妬は恋愛前。
男の執着は失恋後。

自分が現物主義だからなのか、孤独を埋めるのが思い出みたいなのはなんかまだ理解できん。若いからか。