ゆし豆腐

人魚の眠る家のゆし豆腐のレビュー・感想・評価

人魚の眠る家(2018年製作の映画)
4.0
「何をもって死とするか」

心臓が止まったら死だ、と私は今まで思っていた。

植物状態、脳死判定後、脳死判定後の臓器摘出。
正しい答えはきっとなくて、人それぞれの考え方よると思われる。私の好きなある映画では、その人のことを覚えている人が1人もいなくなって、忘れられたらそれこそが死だとあった。

見終わって、もう一度何をもって死とするのか考えた。脳死判定後に、臓器摘出されれば死なのでは?と思ったが、それと同時に、臓器提供され提供を受けた者が生きているとするならば、死から生に繋がり、それは違った意味での生だと捉えることもできるのかなと思った。

生と死は一枚の扉で繋がっているのかもしれないと感じた。一方からみたら死で閉ざされているかもしれないが、扉を開けてみると、生が現れ、生と死は交わって繋がっていく。

私にはまだ子供がいないが、実際に自分の子供が脳死かもしれないとなったら、すぐには決断を下せず、薫子と同じ事をしたくなるのかもしれない。
しかし客観的にみれば、目を覚ますことはない人を(死体を)エゴで自己満足で操っているように見えて気色悪いし、果たしてその子の望んでいることなのかな、、、

機械で手足を動かすことはまだ納得できたが、表情まで動かしているのは不気味だった。
どちらも同じ筋肉を動かしているのはずなのに何故だろうか。
思うに、手足を動かすことは生きていく上で必須だが、表情を動かすことは生きていく上では必須ではないからだろうか。表情がなくても、最低限生きていける。
人間は欲深いもので、一つのことが出来てしまうと、あれもこれも欲しくなってしまう。

人魚の眠る家というタイトルだが、声を発せなくなった人魚とも取れるし、にんぎょ=人形、すなわち、自分の意思では動けない、動かしてもらうことしかできない人形の眠る家の物語なのかなとも捉えられた

同じ環境で育った家族でさえ、移植に関する考え方は違っているのだから、他人なら尚更、価値観は異なるのかも

それぞれに色んな価値観がある中で、人と人とは分かり合えないものなのかもしれない。

というより、他人と分かり合う事なんて、そもそも必要ではない、分り合おうとしなくてもいいのだ。

自分と違った価値観に出会う事はこれまであったし、これからもたくさん色々な価値観に出会うだろう。

自分と違う価値観に出会った時、なんで⁈とその価値観を否定するのではなく、そういう考え方もあるのね〜くらいの気持ちで流していきたい。
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