Jeffrey

正午なりのJeffreyのレビュー・感想・評価

正午なり(1978年製作の映画)
4.5
「正午なり」

〜最初に一言、ATG映画の数ある青春作品の中でもすこぶる傑作のー本である。この映画には青年の欲望、不満と欲求、それら全てをオートバイによるイメージが展開される東陽一監督の「サード」を彷仏させる作品でもある。まだ生温かい〇〇と性行為をする迄の過程をグロテスクに描いた青春の傑作だ〜

冒頭、湖畔から小舟が到着する。一人の青年が手錠をかけられる。都会の生活に失敗した彼は、故郷に帰り、自分の生活を見出そうとする。キャンプ、唯一残った男友達、近くのバー、女と男。川辺の強姦。今、彼は欲望をむき出しにする…本作は芥川賞作家、丸山健二の同名の原作を映画化したもので、脚本は漫画家として活躍する福地泡介、監督は黒木和雄の助監督をつとめてきて、この作品がデビューとなる後藤幸一で、一九七八年のATG作品の青春映画の中では上位に来るほど好きな映画であり、久々にDVDボックスのー枚から鑑賞したが素晴らしいの一言だ。「サード」「遠雷」その他多くの青春映画があるがこれは個人的にはめちゃくちゃハマったー本だ。主人公の金田賢一は身長一八三センチで、この映画を作る昨年には八ミリで一時間三〇分の青「春の証明」を制作し監督している。本作の撮影時はまだ十七歳で成城学園高校二年在学中のバレーボール部に所属していたそうだ。顔つきも非常にハンサムである。

さて、物語は都会に疲れた青年は故郷の田舎へと戻る。彼は童貞である。実家に戻って家電屋の仕事を見つけ、家にその家電を持って帰り修理する日々。母親は彼の痩せた体を見て嘆く。両親とはうまくいってないようだ。ほとんどの親友たちは東京へ行き、唯一残っていた地元の男友達とバーに通う日々。そこに1人の女がいる。だがその女には男がいる。近くの川辺ではテントを張ってキャンプを楽しむ若者たちがいる。性欲のはけ口になっている。彼はつまらない日常に苛立ち、バス停でたまたま見かけた牧場の女性を追いかけて強姦する…と簡単に説明するとこんな感じで、青春映画の傑作である。

いゃ〜、冒頭の湖畔から小舟で運ばれてきた主人公に手錠をつけられた瞬間に音楽とともにタイトルが出現し、森の中を三六〇度回転し続けるカメラのカット割の多さに脱帽する。なんともかっこいいスタートだ。いったい彼に何が起きたのかと言うクライマックスから始まるファースト・ショットである。久々に見返したがやはりこの映画はアートシアターギルドの中でも群を抜いて傑作だと思う。やはりレイ・デイビスの作り出す音楽は素晴らしい。それに土砂降りの中、雷が雷鳴し、森を爆発させるシーンをひたすら濡れながら歩く青年の情念とも言う目つきも印象的である。都会の生活に失敗した青年が故郷に帰り、そこで自分の生活を見出そうとする姿はたまらなく感情移入できる。そしてまだ手渡しだった時代給料が、それをお袋に全て渡そうとするが、お袋がいらないと断る際に、封筒からお札を数枚取って残りをお袋の割烹着のポケットの中に入れ込むシーンも非常に印象的。

どってことないシークエンスなんだけど、母親が息子の裸(風呂場で背中を洗うシーン)を見て、お前痩せたなと言う一言とお前が良ければここにいればと言う言葉に胸が痛くなる。そんでいまどきの若者は絶対聴いたことがないと思われの福島邦子の"スロー・ダンサー"が一瞬ラジオから流れるんだけど、もうテンション上がるほどかっこいい曲なんだよ。ちなみにiTunesとかにないからYouTubeに落ちている音楽を聴くしかないんだけど、さっさとダウンロードできるようになって欲しい。ほんと名曲なんだよね。ほんと一瞬しか流れてこないんだけど素晴らしい名曲だよ。それと八神純子の"みずいろの雨"も一瞬レコードから流れる。にしてもさ、わりかし質素な青春映画だけど、原田芳雄が出ているから一気に濃くなる。このときの兵庫県出身役者で主人公金田賢一すごいハンサムだと思う。

クライマックスの欲求が溜まった主人公の青年が森の中を少女を追いかける場面での手持ちカメラの臨場感たまらない。そして川に出て水しぶきがカメラにかかる大迫力、最高である。そしてあのオチ…。この顔はかっこいいのに、下半身に性欲が満ちあふれていて、歩き方がぎこちなく、金田賢一演じる青年の存在感があまりにも醜く描かれている。だが、それがとても良いのだ。アンバランスな感じがこの映画の救世主になっている。この映画を見ると彼がとにかく歩くシーンが多く挿入されている。まさに異様な感じで歩く彼の印象は強い。同じ青春もので「サード」(ATG)と言う東陽一監督作品があるが、それも祭りのイメージが挿入されているが、本作にもオートバイのイメージが入っていた。この不安定な青年の感じと、そのイメージがリアリティを支えている。これが後藤監督の処女作と言うのだからびっくりする。基本的に青年とオートバイのイメージが、彼の内部で常に繰り返されているのがわかり、カットバックの視点も非常に巧妙である。アートシアターギルドの中でもまさに時代的に新しい作品が生まれたと言えるだろう。今までにないようなテーマがきちんと入っている青春映画だ。

それに、編集のリズムと言うことに関して言えば、前半の短いエピソードを積み重ねてストーリーを展開させると言う構成ではなく、あえて並列的に置いていって、そういう状況の中で主人公を追い詰めてラストへと引っ張っていくと言うふうにしているところも良かった。だから主人公の存在感が非常に前面に出てきているんだと思う。彼の行き場のない感情がにじみ出て、視覚的に徐々に見えていることがこの映画の大事なポイントだろう。その思いが自分の内部へと入っていく設定のため、彼が待ち望んでいる自由の象徴と言うものがいつ果たされるのかというのが主に観客が共鳴できるところだと思う。だからあのイメージでオートバイが入り込むのはそのためである。彼が何をしたいのかと言うのをイメージとして写し出されるのだ。この都会から戻ってきた田舎町でのー連の物語が。私がこの映画をすごく気にいった理由のーつに、青春映画であると言う以前に、ダサイ青春であり、惨めたらしい主人公が写し出されているからだ。

それは青春映画の原点とも言うべきものである。当時の日本はあのような青春が大半を占めていたのではないだろうか。スタイリッシュな人生でもなく、かっこいい自分でもなく裕福でもない。挫折して故郷へと戻ざるを得ないそういった惨めさがこの映画にはにじみ出ているのだ。そうするとこの作品も七十年代と言うことになると、長谷川和彦の「青春の殺人者」橋浦方人の「星空のマリオネット」そして本作が青春のあり方がある意味でバトンタッチされてきたと言う感覚がしてくるのだ。実際に私の大好きな監督黒木和雄もそう言っていたと思う。この映画冒頭のシーンからしつこいまでに雨の描写が映されるが、天候は晴れてばっかで全く雨が降らなかったため、八月末に撮影が終わってから雨のシーンだけ四日間、夕方五時から六時までやったそうだ。それから確か公開当時に黒木と後藤が対談していた中で、この主人公は監督自身の青春に忠実にとっていたと確か言っていたと記憶する。

それにしてもこの映画ヒッピーみたいな連中が川辺でキャンプするんだけど、そこに主人公がー人孤独感を放ちながらたたずむのはすごい演出だと思う。それと都会からこっちへと来ている設定だが、東京の描写が一切写し出されないのも監督のこだわりだと感じる。ラストの河の移動はかなり大掛かりだったと思う。川を渡っての移動撮影だったため、レールを引き始めて、撮影するのはかなり苦労したんじゃないだろうか。結果カットの息があのくらい長いと迫力に満ち溢れたんだろうなと。しかし金田は移動車とぶつかって怪我をしたらしく、本当に大変だったみたいだ。実際に日活の人に応援に来てもらったと言っていた。さて、この映画は、東京で失恋した高卒の若い労働者である主人公の青年が田舎へ戻ると言う決心をして荷物をまとめるところから始まり、列車に乗って田舎の駅に着くまでの長い描写がうかがえるが、実際に東京でどのような失恋もしくは失恋ではないのかもしれないと言う謎に満ちたここまでのいきさつが伺えないのが本作である。

しかし田舎町に戻って、同級生の男に対し、女はいつも逃げてしまうと言う発言をしているため、失恋だったんだろうなと私は勝手ながらに思う。その男も実際に女に逃げられてしまいなぜ俺から逃げていったのかがわからないと自問自答するのだ。主人公の男の東京での生活が曖昧に描かれているのがポイントだ。同じくギルド映画で斉藤耕一監督の「津軽じょんがら節」と言う傑作があるが、それも東京(東京だったか忘れたがとりあえず都会であることは間違いない)でやくざと刺し違えて田舎へ逃げると言う物語だったが、どのようにヤクザと刺し違えたのかが描かれていなかった。そこも曖昧なのだ。しかもそのヤクザは途中でその田舎に…これ以上言うとネタバレになるため言えないが、そこに対しても謎が大きく残る。というか曖昧に帰結するのだ。さて話を本作に戻すと、主人公の青年は田舎へ戻ってきて、父親と母親からなぜ舞い戻ってきたかと言うことを聞かれても無口のまま答えない。

さらに町役場に勤めている叔父から就職のために町会議員宛の紹介状を書いてもらっても、それを破り捨てる始末である。後に、街の電器店でテレビの修理の仕事を発見するやいなや、そこに通いたくないがために、テレビをわざわざ山の中まで運んで自宅で修理すると言う条件で引き受けるのだ。そうすると、彼は相手に頭を下げると言う行動にうんざりしているのか、反発しているのか、人との関わりを避けているように感じる。そうするとこの時代からー種の在宅勤務いわゆるテレワークと言うものが、あったんだなと感心してしまった。それに彼はいとも簡単に機械を直してしまう修理の技術を身に付けているのだ。さらにこの映画は現代にも通用する田舎に若者が全くいないと言う現状も写し出されている。といってもそこにテーマを絞っているわけではないが、主人公が唯一学校時代の友達である一人の男が現れるが、それ以外は全く出てこないのだ。と言う事は、その男友達以外の他の学生時代の友達はみんな東京へ出て行ってしまったと言うことが暗示的にわかる。しかもその唯一残りの男友達も、東京に出たがっている感じだし、田舎に若者がいない状況も、この時代からあるんだなと思い知らされた。

主人公の男が猛烈に女とセックスをしたいアピールをしているのだが、実際東京でセックスする前に女に逃げられてしまったのだろうか、そのリベンジを田舎でやろうとしているのか、それはわからない。しかしながら、キャンプ場の若者たちの荒れ果てた生活を見ていると、彼自身は、そういう奴らと僕が求めている性行為は同じようなものではないと差別化しているようにも感じる。だから原田芳雄演じるあのいかつい男の女性関係に対してどこかしら怒りを持っていたのがわかる。だからキャンプ場の川辺で、健康的な体をした一人の女性が寝転んでいて、日差しを浴びている隣に湖から上がってきた主人公の男が横に寝始めると何ジロジロ見てんのよと嫌われるのだ。それにむしゃくしゃして、そこからバス停とへいき、この田舎町からまた喧騒とした都会へと戻ろうとするシーンが出てくる。そこで彼は天使に会うのだ。その天使こそ彼が後に強姦し〇〇してしまう、運命の歯車を狂わせていく瞬間なのだ。彼からすれば魔がさしたで終わる話だから、女性からすれば魔がさしたどころの話ではないと言う感じだ。

さて、ここからがこの映画の面白いところである。その男が彼女を強姦するまでのプロセス、森の小道をひたすら追いかけて声を上げながら逃げ惑う女性を必死に追いかける主人公は、川辺のゴツゴツした岩に転倒して彼女が〇〇してしまうのだ。これは果たして殺人になるのかどうか、しかしながら弁明することも非常に困難である現状を見ると、どういった事柄がこの後進むのか、ここで観客は色々と頭の中をよぎるのだ。あれ以上追いかけなければこのような事態にはならなかった。なったとしてもそこで彼女を助けるもしくは誰かを呼ぶなどすれば良かったものの、彼はなんと〇〇を犯すと言う非人道的なことをするのだ。それもこれも欲求が溢れ出していた結果なのだ。それに青春映画にもかかわらず主人公の男と女性がデートするような描写も一切ない。あとどこかしらエリア・カザン監督の「草原の輝き」などを思い出してしまう。若者たちにつきまとう狂気な描写が良かった。

それからその男友達と町の小さなバーに行ってあけみと言う女性のことを気にかけるが、彼女の家に行ったら、原田芳雄演じる男がいてショックを受けるあたり、非常に彼はセンシティブな内面を持っているんだなと思った。そういえばもともと黒木和雄の助監督をしている後藤が本作を撮りあげたが、黒木も中島の脚本による「祭りの準備」をギルドでとっていた。今思えば、小林脚本による同じくギルド作品の「新・人間失格」も太宰治を下敷きにしながら津軽で過ごした自らの青春の劣等感を表現した作品もあったな。この映画ですごい強烈だったのが、主人公の男の性的な妄想だ。牧場で働く三人の女の部屋を覗きに行き、彼女らの枕みたいなものを抱いて性を感じているのがすごかった。しかもあの覗く瞬間の顔つき目つきは後のアートシアターのプレスシートの表紙にもなっていた。

にしても、童貞である彼がまだ生温かい女の体にぶちこむと言う感覚が果たしてどういったものなのだろうか、全く以て想像がつかない。ハンニバル・レクターも真っ青なほど恐怖の瞬間である。やはり人間内面にあるモヤモヤをずっとため込むとある種何かをきっかけに一気に爆発するんだなと思った。それが牧場の娘の運命を地獄絵へと押しあったのだ。このセックスの行為の中に、彼の青春のエネルギー、そして快楽の全てが注ぎ込まれたんだなと思う。長々とレビューしたがこの作品は非常にオススメできる。まだ見てない方はぜひお勧めする。
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