SatoshiFujiwara

セルジュ・ダネーとジャン=リュック・ゴダールの対話のSatoshiFujiwaraのレビュー・感想・評価

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採点するようなもんじゃないので未スコア。

「ゴダール全評論・全発言」にゴダールとダネーの対話が収録されており、その映像は『ゴダールの映画史』に少しばかり登場していた。しかしそれが2時間分も存在するとはね。先に広島国際映画祭で上映されていた本作、ゴダール主義者は必見、そうじゃない人には多分退屈だろうが、食えないオヤジぶりとジョークを飛ばして自分で先に笑ったりするゴダールはなかなかにフォトジェニックだったりするからそれはそれで見物。

それにしても本対話でのゴダールとダネーの位置関係がなんだか妙で、こちら(ゴダール)に顔を向けているダネーに対し体を真横に向けてダネーの顔も見ず(対話が進むにつれて見る頻度が少し上がりはするが)葉巻を四六時中ふかすゴダール、それをゴダールの右側から固定カメラで延々と捉える。だから映画内でゴダールはほぼ右横を向いていて観客には横顔しか見えない。また、ダネーの真摯な質問に対して正面から答えると言うよりは自分に引きつけて喋りたいことを好きに喋っているという。この構図はゴダール自身が決めたのか知らぬが、全く見事にこの両者の関係性(と言うかゴダールの態度全般)を表している。

話の内容を要約するなんてことは俺の手に余るので、堀潤之氏の見立てに従えば、「この対話の4つのポイントは、一つ目はモンタージュについて、二つ目は見ることと言うことの対立について、三つ目はテレビと映画の関係について、そして四つ目は強制収容所についてです」。あるものとあるものを同時に提示するモンタージュが(ゴダールに言わせれば映画「だけ」が)歴史を語ることが出来る(付記すれば『アワーミュージック』に出て来た切り返しの問題)。トーキーが人々に「見る」ことを忘れさせた。映画は強制収容所の映像を「残す」ことが出来なかった。この人類最大の蛮行を記録し得なかった映画はその時から既にして「遅れて」しまった。『映画史』はもちろんのこと、80年代以降(さらには90年代以降により純化した形で)にこれらゴダールの問題意識は繰り返し作品に登場して来るが、この対話はそれを先取り、と言うかより具体的に分からせてくれる貴重なものだと言う気がする。とは言えこの対話、特にゴダールの言い回しはかなり晦渋であって、今回のアンスティチュ・フランセの上映では廣瀬純のアフタートークに随分助けられた。

個人的にはアメリカ映画に唯一対抗し得た、というゴダールのイタリア映画に対する見解が興味深く(これが『映画史』での手放しのイタリア映画礼賛に繋がるのだろう)、またはダネーに「君はこれ(『映画史』)に出ないのかい?」などと冗談めかして尋ねられ、軽くいなしていたそのゴダールが蓋を開けてみれば冒頭の登場は別として、1番最後にボルヘスの挿話(「夢の中で楽園を通過した男がその証として一本の薔薇を手に取り、目覚めた後もその手に薔薇があったとしたら…。それが私だった」)のナレーションの後にその肖像がシレッと現れる訳で、ゴダールは自身を最後の映画作家、もっと言えばキリストにすらなぞらえている節があるのだけれど。
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