鶏のまにちゃん

ブラック・クランズマンの鶏のまにちゃんのレビュー・感想・評価

ブラック・クランズマン(2018年製作の映画)
4.0
この映画の、二人の刑事によって行われたKKKへの潜入という題材を見て、刑事たちの友情や、KKKの鼻を明かす気分のいいシーン、スリル満点の展開で「気持ちよくなれる」と期待するなら、きっと肩透かしを食らうと思う。もちろん「気持ちよくなれる」シーンはたくさんあるから、それだけを食べることもできるだろう。でも多分これはそういうための映画じゃない。

例えばこの映画の冒頭は、ロイが最初に警官になるところから始まるけれど、彼はトラブルがあっても自分だけでなんとかしろと言われる。更に彼が最初に配属されたのが資料室。突き放され、脅された上にさほど面白くも刺激もない職場。まるで「他のところに配属するといろいろ問題があるんだ」と言わんばかりの閑職だ。
その資料室で務める仕事は面白みがない上に、同僚が黒人を侮蔑的な言葉で呼ばれるタイミングが絶えずあり、我慢することを求められる。極めつけに、彼らにその報いを受けさせるのはたやすいことではないということが描かれる。
黒人であるということ、被差別者であるということは、こういう日常に腹が立っても我慢するしかないということだと、私たちに示す。

じゃあ、本当に我慢をするのか?というのが次の段階だ。
クワメが黒人は美しいと訴え、そうだ私たちは美しく強いのだ、とパトリスをはじめとしたたくさんの人が賛同するのを観て、ロンは勇気をもらう。ロン自身は、白人と戦争をしたいとは望んでいないし、白人のものだとよんでもいいだろう警官である自分を誇りを持っている。彼はパトリスたちとは違う形で戦おうとする。それがKKKへの潜入だ。暴力と、さらなる惨禍を防ごうとする。

一方パトリスは差別に煽られた社会で、黒人がどのようなひどい目にあってきたかを知ろうとする。彼女はそれらのことを知ることを望み、自分たちのオリジンは誇るべきものだと人々を鼓舞する。彼女は白人との戦いも厭わない。敵対し、敵視し、「自分たち」を勝ち取ろうとしている。彼女は暴力を望むわけではないが、阿らないという強い意志があり、だからこそ「白人」的なものをすべて拒絶するところがある。

作中で、パトリスはロンの戦い方に賛同しない。でもロンはパトリスのように戦わないにしても、パトリスのようにな戦いのこともまた応援している。
あのロンの姿勢は、戦い方は一つではない、ということを示していて、それはラストシーン、パトリスとロンの二人が銃を構えるシーンにつながってくるのだと思う。
燃え盛る十字架、つまりそれに象徴されるような差別のはびこる社会に向かって、二人で同じ方を見て銃を構える。別々の武器、別々の立場、でも同じ方を見て、同じものを見て、外と戦うのだと。

そしてこの映画において「戦い方」を語る人がもう一人いる。フリップだ。彼はユダヤ人としての自覚が薄い。自分をユダヤ人と強く感じるような出来事の経験が少なくて、まるで自分は「そうでない」かのように錯覚することができたから、そうしていた。でも実際には彼はユダヤ人だし、その事実はどうしたって存在する。
彼は最初「お前とは違ってこの潜入は単なる仕事なんだ」と言ったけれど、おそらく最後にはそうではなくなっていただろう。彼には差別に対して強く怒ったりするシーンがない。でも戦わなかったわけじゃない。どうでもよかったわけでもない。
彼は「自分はユダヤ人じゃないと思っていたけれど、もう今はそうは思ってないよ」と言った。彼はダビデの星を手放さない。黒人差別に関して差別される立場ではないけれど、でもフリップはそこに近い場所にいて、そして一緒に戦ったのだ。
マイノリティに優しいのはマイノリティだ、という話は時々聞くけど、多分フリップというキャラクターによって描かれたのは、そういうことなのだと思う。

こうやって丁寧に被差別者とその周辺を描きながら、同時に差別者について描くところが、この映画の真に素晴らしい部分ではないかと思っている。差別者をサンドバッグのように、都合の良い愚かな存在としてだけ描かないところが。
ウォルターの理性的な様子は、フェリックスと違って感情がコントロールされている分、だからこその難しさがある。差別とは狂人の慰めや夢ではなく、理性的で当たり前の意識の隣にあるのだと。差別は悪意に満ちた、まるで自分とは全くの生命体による愚行ではないのだということなのだと思う。
アイヴァンホーの私生活についてはほとんど触れられないが、彼のおどおどとした様子と、酒が過ぎて抑制が効かなくなる様子は、どこかKKK以外での居場所のなさを想像させる。
おそらく、それはフェリックス夫妻も同じだろう。爆破計画を持ち出し、嘘発見器を家に設置し、新入りに銃を突きつけ執拗に疑いの目を向けるフェリックスの行動は妄執じみている。ただ、そこにコニーが絡んでくると、フェリックスの妄執に違った色が見えてくる。コニーはおそらく孤独で、自分というものがあまりない。彼女が「そう」なった理由はわからないが、彼女にとってはフェリックスに賛同し、彼の望むような行動をとり、彼の役に立つことが重要なのだ。彼女は多分孤独で、他に居場所がないのだ。
人は、たとえそこが「良い場所」ではなかったとして、孤独にならずに済む場所、そこでなら自分が認められて、自分に自信が持てて、自分を愛せるし人から愛されるとわかったなら、それを捨てられるとは限らない、と思う。罪にならないわけではない。でも私たちはそれくらい弱い、と思っておかなければならないと思う。


この映画はチリチリとした怒りに満ちている。でも、新鮮で熱い怒りではない。「慣れている」という現実に対する諦めを帯びた怒り。目はギラギラとしていても自分が何をしているのかはよくわかっている。
だからこそ、ラストに流れるのはあの映像なのだと思う。
「君たちは1979年の遠い過去の話だと思っていないか?」
「そんなことを言う人を選んだりはしないよって思っていだろう?」
「差別は今も続いていて、そこには被害者がいるんだ」

これは、怒りに燃えている映画だ。この映画は観た人の胸をドンドンと叩く。君たちはこれでいいのかと叫んでいる。