アキラ

愛がなんだのアキラのレビュー・感想・評価

愛がなんだ(2018年製作の映画)
4.7
”20代後半の恋愛なんて、告白とか「付き合おう」とかなく自然とそういう関係になっていくもんだ”

角田光代原作「愛がなんだ」
今泉力哉 監督作品。
主演は岸井ゆきの、その他キャストに、
成田凌、深川麻衣、若葉竜也、江口のりこを迎える。

”好きな人できると好きな人が大事、それ以外はどうでもいいの”

主人公のテルちゃんは、こんな子だ。
結婚式の2次会でマモちゃん(成田凌)と出会い、
一途に想い続ける、恋愛依存症な28歳女の子。

本作は、そんなどこにでもいる女の子の日常を描いている。

好きな人のために、夜中に呼ばれたら、飛んでいく、
周りから反対されても、カレを擁護する、
仕事は遅刻するし、何なら休む
夜中に家を放り出されても許せちゃう。


特にドラマチックな展開はないのに、
気づいたら、自分のことを描いてるんじゃないかと、
錯覚するくらい、共感ポイントが散らばっている。

文字にすると、「いやさすがにそこまでは。。」
と、”自分はまとも”ぶりたくなる。でも、
テルちゃんのマモちゃんをみる視線や、表情、コトバは、
全く同じとまではいわないが、
絶対どこか心当たりがあるはず。
好きな人の行動パターンを把握したり、
口ぐせを真似したりと。
恋愛なんてものは、思い返せば、
黒歴史みたいな行動をしているもんだと思う。

そんなテルちゃんを見て、同僚は、
「それって自分は?自分のこともどうでもいいの?」
と独り言のように尋ねる。


テルちゃんの恋愛は、
”わたしは、マモちゃんになりたいなぁ”
というところに軸足どころか、
腰まで浸かっている。
そして、そんなテルちゃんを見てると、
愛くるしくて、
ただ、ただ、ただ、、かわいい、、!
そして、ときどき、せつなくなる。

しかし、彼女は、どうしてだろう、
”いまだにタナカマモルの恋人ではない。”


テルちゃんの想い人、マモちゃん。
尽くしに尽くしてもらい、
一途に想い続けていることを知りながら、

”山田さんのそういうところ、苦手なんだよね、
5周ぐらい先回りして気を遣ってくるところ。”

とか言っちゃう、いわゆるクズ。
けど、どこか憎めないのは、
やはり、身に覚えがあるからだと思う。

マモちゃんは、最初からクズだったのか?
ぼくは違うと思った。クズという表現ですら。
「この子は彼女になるのかな」と考える期間が、
積み重ねる時間の中で、確実にあって、
テルちゃんは、彼女になれないほうに仕分けられたのだと思う。

その理由も、ちゃんと映画の中に登場していた。
・風邪で寝込んでるとき
・居酒屋での注文
・動物園で象を見てるとき
・洗濯するシーン
あるいは、映画には登場しないポスターのシーンで
すでに心は決まってたのかもしれない。

テルちゃんとのささいな”ズレ”は、
マモちゃんにとって、将来を考えたときに、
バタフライ効果的に、致命的な”欠陥”を想像させたのだと思う。

その結果がふたりの距離感であり、
越えられない一線をマモちゃんは引いたのだと思った。
それと同時に、一途に愛される稀有さも自覚している。
だからこそ、マモちゃんは、テルちゃんに”一線”を示し、
関係性の答えを委ねた。
お互いがいいなら、それでも良ければ、一緒にいると。
つまるところ、やさしいのだと感じた。
そこにウソがなかったから。
テルちゃんの愛ゆえの行動も、頑なに愛として受け取らず、気持ちがウソでも一旦付き合うという選択もせず、騙してまで、関係性を維持しようとしてなかった。傍からみれば”クズ”と呼ばれる行動も、当事者間で、成立していればクズじゃない。そんな陳腐なコトバで彼らを説明してはいけない。



”好きになるようなところなんてないじゃんって話なんですけど”

テルちゃんを使ってまで、アピールするが、
想い人すみれ(江口のりこ)に相手にされず、
しまいには、テルちゃんの家に一緒に帰り
「ヤらせて」というマモちゃん。
行き場をなくした愛をちゃんと性欲に変換して、
唾棄する。


ここでのテルちゃんの表情がやばい。
リアルすぎてえずきそうになった。
もちろんこんなこと言われても、
受け入れるテルちゃんの姿は、
狂気的な執着にみえた。

”そうだよね、私もそう思う。
好きになるとこないはずなのにね。変だよね”

そして一呼吸おいてから、

”すみれさんのことは諦めて、わたしにしなよ?”

狂気的な執着とみえたものが、その一言で、
ただひたすきで純粋な愛なんだと思った。
劇場内は、鼻をすする音がひびいてた。

もはや、二人の関係は、恋人やセフレ、
愛だ、恋だと定義するのは無粋だと思った。
どこまでも十人十色で、属人化する関係に名前はないんだ。好きだ嫌いだを超越したナニカがそこにあり、テルちゃん自身は、もはや自分が傷ついてることすら自覚できない域まできているように見えてもどかしかった。


”あんたのいいところは、どんなにつらくてもちゃんとごはんを食べて、冗談でも『死にたい』とか言わないところだよね”

親友の葉子(深川麻衣)は、テルちゃんをこう評した。
この映画が厄介なまでにこびれついてくる(誉め言葉)のはテルちゃんとマモちゃんの関係にリンクするように、葉子と仲原(若葉竜也)の関係がもう片方にあるからだ。好きのベクトルが男女が入れ替わる形で。


この葉子は、一見、”まとも”に見える。
”ダメ”な恋愛を続けるテルちゃんをいさめたり、
マモちゃんをクズだと嫌悪感をだし、第三者的にみて、正しいアドバイスをしており、テルちゃんに相談されたら、こう言ってやりたいっていことを代弁してくれるから。

しかし、ナカハラの存在が、彼女の人間性に疑問を呈する。体の関係はあるが、恋人ではない存在。頼まれごとを嫌な顔せずこなす、ナカハラ。

葉子が感じたマモちゃんへの嫌悪感の正体は、
マモちゃんの中に、自身の片鱗をかんじたからだと思った。



”もうほんと、ほかにだれもいねえよってときに、呼び出してもらえるようでありたいっす”

ナカハラの恋愛は、ここにあるからこそ、
テルちゃんとは戦友になりえた。
(本人たちは、ストーカー同盟と呼んでいたw)
自分たちがイタイ恋愛をしていることを
自覚し、傷をなめあった。

しかし、”ある出来事”をさかいに、
ふたりは方向性を違える。

”幸せになりたいっすねぇ
うるせーよ、ばーか! ”

このシーンでのナカハラとテルちゃんの掛け合いの流れは、本作の見どころの1つであり、ぜひ劇場で注目してほしい。もう1つ書きたい名セリフあるんだけど、ネタバレになるので、
見た人は語りましょう!w

そしてこのシーンの最後でナカハラは、唾を吐いて去っていく。エモすぎる、とにもかくにも、ナカハラに同調する人続出である。この世の中にナカハラ多すぎ説。

しかも、彼女いない子は口をそろえ、
”幸せになりたい”と言ってる人多いから、リアルすぎる。。彼らにとってナカハラの一挙手一投足、グサグサと刺さってくる。



そんな4人(+1人)の群像劇が本作だ。
総括に入ろう。
社会生活の中で形成されていく倫理観が、
”正しさ”のモノサシとなる。
ぼくらは、そのモノサシを当てて自身の行動が、
”常識”なのか、”非常識”なのかで揺れる。
そして相談を受ければ、”常識”的なアドバイスもするだろう。

ただ実のところ、どうだろうか。
常識のみを選択して、生きれているだろうか。
おそらくそんな人間はほぼいないだろう。
だからこそ、人は人を好きになるし、
完璧な人間より欠陥がある人のほうが愛せるし、
隙のない子より、隙のある子がモテるんだと思う。

ナカハラだって、テルちゃんだって、
正しいことなんてわかってんだよ、
アタマで分かってても、
反射で体が動いちゃってるんだ。
マモちゃんも葉子も
他人には正しいことはいえても、
自分のこととなると、
とたんにできなくなるんですよ。
そういうの全部ひっくるめて、
あえて雑に言えば、愛なんだと思った。


「そんなのは、愛じゃない」と言われるなら、
”愛がなんだ”と唾を吐きかけてやりたい。


ぼくは”畏敬”をこめて、拍手を送りたい、
”正しさ”といういつからか社会に漂う空気のような虚像を踏み倒し、望む姿になれずとも、
他人にけなされようとも、ただひたむきにまもちゃんになろうとしたテルちゃんに。
テルちゃんに妥協せず、二人の関係性に一線を
ひきつづけたマモちゃんのやさしさに。

確かにそこには2人が紡いだ”しあわせ”が存在している。たとえそれが刹那的であっても。

見たら死ねる?傷をえぐる?鬱になる?
何を言っているんだ?フラッシュバックするようにあなたが感じた全ての感情はあなたが選んだ幸せですよ、けなさず、否定せず、ぜひ宝物にしてあげてください。


しあわせになれる、いい映画です。
ぜひ、劇場で。
幕引きのセリフを聞き逃さないようにね。

追伸
たぶんテルちゃんは、あっけなく他の人と結ばれるんだろうなと思いますw
アキラ

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