しゃりあ

mid90s ミッドナインティーズのしゃりあのレビュー・感想・評価

4.4
ファックシット役のolan prenattが若くて金髪お嬢様のカツラをかぶった荒川良々に見えてきて笑ってしまった

それにしても90年代的に見えて全く現代の映画だと思う
90年代リバイバルとして16mm撮影みたいなことはやりつつも、その実、根底にあるのはZ時代的な越境と横断だ
「あの頃は…」のようなノスタルジックでオッサンに媚びる映像演出はないし、そもそも90年代半ばにティーンだった今の30過ぎに向けでの映画ではない温度感だった
編集の速さはかなり今っぽい

Z世代の感覚、というと特別視してるみたいでアレだけど、セイントペプシとかヤングリーンあたりがインタビューで言ってたように、彼らがクソガキだった時代や、まだ生まれてすらいない時代に「ノスタルジー」を感じるのは、それが単にクールだと思っているからだし、「懐かしんだりする過去」ではなく、今現在、むしろこれからのものとしてそれを享受しているからだ

菊地成孔がラジオで山下達郎のsparkleを流した時の
「音楽は通常、過 去に制作されて現在聴く。なので、誰もが時間の流れを一方向に考えている。しかし、あらゆる音楽の響きの中には、未来から循環的に逆行して 届くメッセージが含まれている。端的に、初めて聴いた曲であれば、それが1000年前の曲であろうと、その音楽が未来から少しずつ流れて来るし、何100 回聴いた曲でも、未来からの時間の流れは必ず含有されている。その時間感覚に気がつく事は、知的な事ではない。」
という口上にある「時間感覚」とは、現代に生きる人間ならかなり強く自覚できるのではないだろうか

個人的体験をいえば、ランドセルを背負わずに終わった90年代のに掛かってた音楽だって、17になってから全然digってたし、兄貴が着てるNasだって親父のカーステですら掛かってなかったのに普通にいま聞いてるし、
目線を広げれば、YouTubeには80〜^0年代シティポップのmix動画(今まではあんまりなかった動画形式!)がバカスカ上がり、全世界で再生数を伸ばしてる

もっと言えばsuperorganismの結成とかだって同じ感覚だろう
マルクオジェの非-場所性、あるいは非-時間性の強まりを強く感じる

しかしまぁ、16mmで撮ってアス比3:4でとか、これだけやってなお、この映画を現代映画たらしめているのは、あらゆる境界に対する越境的感覚だろうと思う

これは少しだけ相対主義にも関わってくる
毎回A24はちょっとお利口さんっぽいオサレインテリな嫌いがあるが、mid90sも多分に漏れず同じ匂いはある

過去の音楽やカルチャーも相対的に均してイマのものとして眼前に置くように、人種や家庭環境も同じように並列させ、相互理解につなげるような倫理観が全体的に漂っている

登場人物たちの年齢だって一眼見て分かるほどバラバラだが、全員は友人として年功序列を引かない関係だし、その年齢に関しての越境的感覚は公園にいたオッサンにすら共有されていた

この辺はA24ぽい政治性と前述の現代性の両方の発露だと思う
だけど、その辺を積極くさく全面に押し出していないのも、めちゃくちゃカッコいい

下手に作劇をやらず、下手に社会問題をやらず、ただ現代性と時代感覚のかたまりとなって、ジャンル"90年代"のカッコよさを推しだす
この造りは明らかに狙っていると思うが、時代が降ってもいつだって新しく観れるような映画になっていると思う